MARVEL’S SPIDER-MANの話。

 待ちに待ったPS4『SPIDER-MAN』をクリアした。サイドコンテンツもメインストーリーと並行して進めたので、やり込み要素と、今後配信される追加コンテンツを残すばかりとなった。このゲームのために作った三連休、ほぼぶっ通しでプレイし続けた。ニューヨークを駆け回る爽快感、一本の映画のような展開、ヴィジュアル的にも楽しいヴィラン達との戦い、絶妙な難易度、ルーティンにならないサブミッション、大好きな一作となったこのゲームについて、今回は綴っていく。バレなしのつもりだけど、独自の裁量でここは明かしても大丈夫だろうという部分には触れていきます。

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記事内の画像は全て俺ちゃんの撮影したSSだ!

『マベスパ』(国内での略称、正式なものがないけどこれでいいかな)が映像として初めて公開されたのは一年前、2017のE3でのことだったと思う。情報はそれ以前から出ていて、バットマンのアクションゲーム、所謂「アーカムシリーズ」を三部作全てプレイしていた僕は、ついにPS4スパイダーマンの本格オープンワールドが楽しめるのだと喜んだ。プレイまでは遠いなぁなんて思いも束の間、気づけばもう発売。

 トレーラーの時点で公表されているキャラクターだけでも、MJ、メイおばさん、マイルズ・モラレス、ノーマン・オズボーン(今回こいつ市長)、キングピン、ミスター・ネガティヴ、エレクトロ、ライノ、ヴァルチャー、スコーピオン。ここにあの人とあの人を加えて、有名処は一通り揃っている次第。実はストーリーも、VSミスター・ネガティヴというシンプルな内容ではなくて、トレーラーには出ていないある人物が大きく関わって大筋が進んでいくこととなる。ピーターがリーの正体に気づく展開なんて、あまりにもあっさりしすぎて拍子抜けしたくらいだ。

 スパイダーマンは普通に好きだ。その名を聞いた誰もが赤と青のコスチュームが浮かぶくらいには知名度があるキャラクターに相応しいくらい、普通に好きだ。ライミ三部作、アメスパ、MCU、映画も一通り何周か観ているし、コミックの方も単体作こそ読んでいないけれど、映画とは違う役割を持つシビル・ウォーなんか手に取った。

 ここ二、三年はMCUだけでなくDCFU、それからFOXと、現行のアメコミものは余すことなく映画館で観ているし、特に気に入ったもののソフトや、気になったコミックなんかも買っている。つまりそれなりにキャラクターの知識やスパイダーマン、アメコミについての知識がある人間である、というのが前提の文章になります。

 

    ◇

 

「このゲームは傑作だ!」とか、「ウェブスイングが楽しい」とか「完成度が高い」とか、その辺はもう数多のレビューがあると思うので、割愛。ストーリー部分も、語ってしまうにはまだまだ時期尚早だと思うので、割愛。

 今回、スパイダーマン/ピーター・パーカーだけじゃなく、メリー・ジェーン・ワトソンとマイルズ・モラレスも操作する場面があり、当然MJとマイルズはスーパーヒーローではないため、一般人の視点としてプレイすることとなる。格闘ができるわけじゃなく、基本的に隠密アクションになるのだけれど、特にマイルズがライノと対峙して、見つからないように逃げ切るシークエンスなんか、「一般人から見たヴィラン」というこれまであまり見かけることのなかった切り口で面白かった。これもまた、プレイヤーとして体感できるというゲーム媒体ならではなのかもしれない。

 トレーラーだとラフトからヴィランズが逃げ出して物語の始まりという風に捉えられなくもないけれど、実際は物語折り返しでの展開であり、ヴァルチャーとかエレクトロとか、そこまでフィーチャーされないんですよね。展開の取捨選択として正しいことに間違いはないんだけど、掘り下げてほしかったな、とは贅沢な欲求。ヴァルチャーの吹き替えが大塚芳忠スコーピオンの吹き替えが中尾隆聖だったので、もっともっと他キャラとの掛け合いを聞きたかった。

 こういうタイプのゲームって、ゲーム的な制約として所謂ザコ敵をどう設定するかって問題があると思うけれど、今作は単になんでもかんでもゴロツキってだけじゃなく、フィスクの手下、デーモン、囚人、セーブル部隊と、ストーリーに合わせて増えていくのも捻りが効いてていいなぁと思った。

 今作はスパイダーマン単体ヒーローの作品だけれども、舞台となるニューヨークにはアベンジャーズ・タワーやワカンダ大使館なんかがあり、別のスーパーヒーローの存在も仄めかされている。「スパイダーマン ホームカミング」のスーツを纏ってアベンジャーズ・タワーの壁に貼り付けば、もう実質MCU。ニクいね。

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もうこれMCUだって、はっきりワカンダね。

 替えのスーツも豊富に用意されていて、個人的に良かったのはビンテージコミック版スーツ。トゥーン調のアニメタッチなスーツを着てNYを飛び回ると、認識のズレなのかなんなのか、不思議と街並みがより実写的に見えて楽しい。背景に浮いているスパイディがいい味を出している。

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 それから、既に何枚か貼っているように、とにかくフォトモードが楽しくて、すぐにポーズを挟んでスクリーンショットを撮ってしまう。「アーカムナイト」でも、1989のバットスーツを着てSSを撮りまくったものだけれど、画像の保存数は圧倒的にマベスパの方が多い。色彩補正でポップにもダークにもなるのは、スパイディの持つバッツ以上のポテンシャルだなぁと思う。

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地獄からの使者み

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 ちょっとここで脇道に逸れてもいいでしょうか。何度か出した「アーカム」という単語。改めていつかきちんとした文章にしたいと思うけれど、とりあえずここで少しだけ。バットマンアーカムシリーズ」は、オープンワールドを舞台にしたヒーローアクションゲーム。その三部作の最後になるPS4バットマン アーカムナイト」は、2015年発売だけれど、やっぱりオープンワールドスーパーヒーローものはここでひとつの完成を見ていると思う。さらにそこからマベスパが出てきたことは本当に嬉しいことだし、サブミッションがややルーティンなアーカムシリーズに比べて、マベスパは良いバランスで作りこまれていて楽しかった。

 アーカムシリーズは一作目で既にヴィランズお祭り状態だったけれど、そこからちゃんと続き物として二作目に突入して、なんとそこでジョーカーが死ぬんです。三作目はジョーカーの火葬から始まる衝撃の展開なんだけれど、しかしジョーカーは最終作でもメインキャラを張ることになる。どういうことかというと、スケアクロウに見せられた幻覚としてバットマンの眼前に現れ、彼を苛み続けるのです。ジョーカーの呪縛は解けないというわけ。三作目の面白い部分は常にジョーカーと行動を共にするというところで、バットマンの写し鏡に他ならないジョーカーが常に対比として隣に在るというのは一言で最高だと、「お前、〝理解〟ッてんな!」と、声高に叫びたくなる。しかもゲーム内では(プレイヤーにとって)実像として現れるから、スクリーンショットを撮るのがめちゃくちゃ楽しい!(そこ?)ゴッサムシティという、マベスパのNYに比べたらそれはもうダークでファンタジックな造りの街を背景にツーショットを撮影するのがたまらない。

 三作目のラスボスがスケアクロウというのも絶妙で、彼自身は結構小者だと思うんだけれど、「ジョーカーや自身のトラウマ(=バットマンになるきっかけ)の幻覚を見せ続ける」という一点において、やっぱりラスボスに相応しいなとも思う(マベスパにおいて、スコーピオンがちょっとだけ幻覚バトルを担当してくれるんだけど、どうせなら怪獣サイズになった彼と戦いたかったなぁと、スケアクロウを思い出しながら)。

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尊い……尊くない?

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 ゲームはキングピンことフィスクと対峙するところから始まるんだけれど、チュートリアルも兼ねた彼との戦闘が、正直一番難しかったように思う。アクションが意外とシビアで、こういう類いのゲームをやったことなかったりする人にはやっぱり苦痛なのかもしれないな……と、アマゾンレビューの酷評を目にして思った(なんというか、まぁ、鬱憤を晴らしたい気持ちは分かるんだけど、自分が上手くできなかったというだけのことを、まるでゲームの作りが悪いみたいな言い方で貶すのって、あんまりよくないよなぁと思う)。

 今作のMJ、めちゃくちゃバトルヒロインで(実際戦闘はしないけど)、隠密行動ガンガンこなしていくの有能すぎて好き。スタンガンぶっぱなす場面では笑ってしまった。可愛いし、ピーターとの距離感も絶妙で、ふたりのパートは思わずニヤけてしまった。ライミ版……とは?

 今作、15歳でスパイダーマンになってから8年が経っているという設定だけど、その間にグウェンとのあれそれはあったのかどうかはちょっと不明。15の時からキングピン相手にしているとか、恐れ知らず過ぎて驚嘆。というかピーター、確かに重い喪失と〝責任〟を抱える人間ではあるんだけど、同時に、人脈とか、才能とか、素晴らしいものをたくさん持っていて、まぁちょっと憧れる部分もあるよな、って。

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MJ 有能 素人にしてはなかなかすごい隠密だな

 今作のピーター、アンドリュー・ガーフィールドトム・ホランドを絶妙に混ぜたみたいな顔で、とある展開でのフェイスマスクから覗く顔はトビー・マグワイアっぽくて、なんというか、そこにすら製作者の愛を感じられた。蜘蛛糸で地下鉄を止める場面があったり、〝あの御大がカメオ出演〟したりと、様々なオマージュがところどころに効いているのも楽しい。収集アイテムにはレスリングのチラシやプロムの花、ミステリオやリザードサンドマンとの対峙を示すものがあって、本編外の奥行きが窺えてそれだけでワクワクする。

 とあるヴィラン達とは1対2の複数戦になる場面があるのだけど、ヴィラン同士の掛け合いを聞きながら戦闘するというのも、これまた今までにないアメコミゲーム体験で楽しかった。これも技術の進歩によってできるようになったんだろうと思うと感動的だ。 DCはやっぱりヒーロー、ヴィラン含めシリアス調なので、掛け合いのコミカルさを楽しむことってあんまりなかった(アーカムシリーズなんてまさに)。その点、待望のマーベルヒーローの本格アクションゲーム。まさに顧客が本当に求めていたもの。僕はバットマンが大好きなのだけど、彼の世界ではどうしても表現できない明るさがこっちにはあって、(もちろんピーターは悲哀を背負っていて、それでいて親愛なる隣人として笑うことを選んでいるからこそのエモさがあるんだけど)、その明るさにゲームで、自身がプレイヤーとなって触れられるのは本当に珠玉の体験だと思う。

 ネット上で、マベスパは実質アメスパ3だ、と言っている人がちらほらいて、そこに歓喜する気持ちはすごく解るし、それを前提としてプレイするこのゲームはより楽しいだろうなとも思う。アメスパ2の最後、戦い続けることを選んだ彼の〝その後〟はもうあえて描かれなくてもいいかなと思うくらい、あの終わり方は完璧な打ち切りのひとつだったと思うので、僕個人はあんまり3について想いを馳せることはないんだけれども。

 

 物語が終わった後だから当然仕方ないけど、クリア後にはMJからもユリからも急に何の通信も入ってこなくなって、JJJのラジオニュースだけが無限に再生されるだけなのは少しだけ寂しく、DLCが待ち遠しい。

 マーベル映画よろしくエンド・クレジットの後に挟まれたふたつのポスト・クレジットが、しかしDLCで解決されてしまうのは惜しいなと思うし、続編がきてほしいと強く思う。それこそアーカムシリーズばりに三部作やったりしないかなぁ。今回ラフトから脱獄したヴィランズ達とも、因縁強く戦いたかったし、それにまだまだいますよ、ヴェノム、カーネイジ、ミステリオ、サンドマン、それから……。

 まとめ。とても楽しめるゲームだった。ストーリーだけ追えば比較的短時間&丁度良い難易度で、手応えあるボス戦と、完成された物語を味わえるし、サイドコンテンツも含め文字通りNY中を余すことなく飛び回れば、SS含めずっと遊んでいられるゲームです。最後の闘いも、叫びながら拳を交え合うという、ベタだがめちゃくちゃアツい展開で、そこにプレイヤーとして同期できるのは、ゲームの素晴らしい所だと思う。エンディングでの「選択」シーンには泣かされてしまったし、そこには当然、他ならぬ自分自身がピーターとなってプレイしてきた分の感情移入もある。カジュアルにもやり込みにも対応した、時代の〝最新〟に相応しいゲームだと思う。きちんとフォトモードが用意され、お気に入りのSSを共有したくなるのも、現代的で良い。明日は君がヒーローだ。

「あの頃はよかった」に思うこと。

「思春期」や「青春」といった単語についての言及が多く、また、まさに『あの頃、君を追いかけた』なんて映画が人生ベスト級だと評しているくらいなので誤解されがちだが、僕は「あの頃はよかった」ということばが苦手だ。時に嫌悪すら抱いてしまう。なんて唐突。今回はそんなお話。物事には流れがあるからね。

 いきなり余談だけれども、一時関わった時の印象のまま、いつまでも僕自身について勝手なことを言う人間が昔から周りにぽつぽついて、僕はそういう人が本当に苦手だった。短期間で思想や思考が次々更新されていくタイプの人間なので、「あなたが言及してる僕は今の僕じゃないですよ」と内心思うことが多々ある。*1

 

     ◇

 

「あの頃」という言葉は大枠で二種類に区分できると思う。人生における個人的な過去――対象になりやすいのはまさに思春期や学生時代だろう。もうひとつは、特定の時代の区間。もちろんそれも個人の経験だけれども、前者より共時性が強く、共通の話題を語る際に使われることが多いように思われる。(雑だけど、批評でもなんでもないしいいでしょう?)

 

「あの頃はよかった」ということばには、「今は前よりよくない」が含まれている、ように思う。そして僕はそこに、どうしても惰性や怠慢、視野狭窄を見てしまう。

 ここのところ、80年代カルチャーが讃えられている場面を見ることが増えた(本当はそんなこと、80年代が終わった瞬間からずっと続いているものなのかもしれないけれど)。具体的な作品名なんか挙げてしまうと、意図せずにそれを貶していると受け取られかねないのでほとんどを伏せるけれど、例えば最近リメイクされた某漫画原作アニメなんかも、その大元の偉大さや後世に与えた影響の部分が宣伝に用いられていた。けれど、その原典に当たった僕が抱いた感想は「当時はすごかったんだろうけど、今見ると普通だな」だった。それって、当然だと思う。カルチャーなんてどんどん洗練されていくし、描写も展開も多くの過去作を参照し、取り込んで、よりよいものができていく。自身の嗜好と密接な部分での評価にどうしてもなってしまうことはちゃんと自覚しているつもりだけれど、「時代的価値がある」とされている〝名作〟を、今この時代に、後世に生まれた自分が臨む際の態度とか、抱いた感想についてとか、置き処、落し処がないなぁと思うことが多々ある(そしてそれ故に、それを貫いて、普遍的な面白さを持っているものって強い)。

 大御所声優を集めてランキングが進む、定期的な「昭和のアニメ」賛美。最新ビッグバジェット映画の音楽に敢えて古い時代の音楽を用いる。〝あの名作〟の続編、リメイク、続編、リメイク。ゲームハードの復刻筐体に、こぞって幼少期の思い出を語る。インターネットには「今のゲームはグラフィックばっかりで」云々「今のゲーム難易度はヌルい」云々。

 それってつまり、「あの頃はよかった」なのでは?

 結局若い頃、思春期の頃、青春時代にのめり込んだものが楽しい思い出となっているだけなのでは? 今の技術にもうついてこれないだけなのでは? 時代の感性と合わないだけなのでは? だったらそう言えばよくない? 「僕が楽しんだのは思春期の頃のゲームで、僕の人生ではそれらが一番だ」って。どうして触れてもいないものを上っ面だけで否定するの?
 ……みたいな言説は、常に自分にも跳ね返ってくる。
「〝異世界転生〟を君は三文パルプのように言うけれど、じゃあ果たして該当カテゴリのものを一作でも読破したの?」
「四つ打ちロックを中身がないって馬鹿にするけれど、下の世代にとってアジカンはもう最先端じゃないよ?」
「君は老害を嫌悪するけれど、刷新されない君の価値観はいずれ同じ老害になってしまわない?」

「漫画も音楽も、昔好きだったものの話しかできないのは、学生終わって時間がないから? それって理由になる?」

     ◇

 映画が好きな大学時代の同期が、車で時間をかけて往復するTSUTAYAで借りたDVDの返却期限が今日で、延滞料取られるの嫌だ、とぼやいていた。そこそこレンタルをして見ると言っていたから、「プライムビデオなりHuluなり登録したら?」と薦めてみたところ、返ってきた言葉は否定的なものだった。
「いやだって、TSUTAYAより品揃えなさそうだし」
 吃驚してしまった。同い歳だよ、僕ら。デジタルネイティブだよ、僕ら。

「あなたが通うTSUTAYA一店舗よりは確実にラインナップがあるし、最寄り店にもネットにも無い時には無い」と、僕はこう返した。僕も未だ、『大アマゾンの半魚人』を見ることができていない。延滞の心配やら往復の手間やら、そんなものネット環境があれば全て解決じゃないか。

同世代ですら、世の中について更新の遅れる者がいる。僕はついていけるだろうか。変わりゆく時代のスピードに――――

 

 …………。


     ◇

 自分が愛した「時代のカルチャー」というものは、漠然とでも、確かに区分けができるようなものであると感じる。自分自身、90年代~00年代初頭の邦楽ロック通称「ロキノン系」なんて、まさにドンピシャで体感し、後追いし、最も心地のよいものだからだ。ローリング・ストーンズの音楽はタルいし、カナブーンもキートークもいまいち面白くない、そんな世代が僕だ。

 そして当然、影響を受けたものに愛を捧げることは気持ちがいい。心が震える。アジカンナンバーガールスーパーカー、ミッシェルガンエレファント……。

 原作小説も映画も好きな「レディプレイヤーワン」は、言うなればスティーブ・ジョブスが80年代カルチャーをめちゃくちゃ愛しているから、2045年になっても地球上の皆が80年代カルチャーにハマっているみたいな舞台設定だ。

 でも、そんなの、本当にディストピアだよなって思う。

 当然、現在一線で活躍する原作者アーネスト・クラインが、「あの頃はよかった」だけであの物語を書いた人間だなんてこれっぽっちも想定しちゃいない。けれど、少なくとも物語内で描かれるカルチャーの様相は、間違いなく窮屈で、味気ないものだと感じる。だから僕は思う。ノスタルジーなんて、大声あげて共有するようなものじゃない。

 時に僕は友人が言う「高校の時は楽しかったね」にすら、嘔吐感のようなものを抱くことがある。恥ずかしいのだ。そんな言葉を実際に聞いてしまうことが。相手がそこまでの意図を必ずしも込めている訳じゃなくて、それって結局自分自身の写し鏡ってだけなんだけれど。

 確かに同じ時間を共有し、事実とても楽しかった。未来へは希望しかなく、今という瞬間だけを生きることのできた高校時代も、ゆるやかな時間を浪費する素晴らしさのあった大学時代も、いいことはたくさんあった。今はただただ困難と不安と不満と反抗と、細々続く縁と緩い幸福と、それしかない。それしかなくても、それでも僕は、「あの頃はよかった」とは言わないし、「あの頃に戻りたい」なんて思わない。

 過去と現在を比較することが、気持ち悪い。

 でもこれは、二十代になる前の僕なら絶対に言えなかった。だからやっぱり、価値観も思想も変わってゆくんだよね。

 

 ……今回の文章、結構取っ散らかってるなぁ。「あの頃」というキーワードで思うことをひたすら吐き出したみたいになっている。なんかこう、常日頃思うんですよ。「人生やり直し系」の物語とかが人気になってたりするの、なんだかむず痒かったりして。「あの頃をもう一度」という感情を持ったまま、その「あの頃」に戻ったとして、僕はきっともう冷めすぎていて、「あの頃」と同じようには日々を過ごせないんじゃないかって、思うんだよね。例えば恋愛ひとつ取っても、現時点での記憶を保持したまま十代に戻ったとして、瑞々しい恋愛ができるだろうか。だって、俯瞰してる自分がいるじゃん、そんなの、つまんないよ。ううん? なんだかよく分からなくなってきたぞ。今流行ってるものを腐したくなることは誰しもあると思うけれど(え、無い?)、その際に過去の何かを持ってくるのはやっぱり間違いだよね。

 出版社運営のweb小説サイトにて、過去の某ライトノベル(僕自身も、確かに傑作だと思う)が公開されることになった際、その作品へのレビューコメントが結構気持ち悪くて引いてしまった覚えがある。現在を腐し、過去には素晴らしいものがあったと殊更に称揚するのって、痛い、よね。

 

 嗚呼、いつか僕も、下の世代が忌避するような年寄りになるのだろうか。「あのオッサンまたアジカンとかいうの歌ってるw平成のセンスだよなw」と影で囁かれ、耳の遠くなった僕は満足げな顔でアジカンがいかに凄かったのか語っちゃうのかな。「今の若い子達は知らないかぁ~w」じゃあねぇっつの。あー、死にて。

*1:だからTwitterで未だに僕について言及しているあなた、不愉快なので止めてください。

『あの頃、君を追いかけた』の話。

 結婚式の話題を出したので、続けて人生ベスト級に好きな映画の話をしようと思う。

『あの頃、君を追いかけた』(原題:那些年,我們一起追的女孩、You Are the Apple of My Eye)、2011年の台湾映画。作家ギデンス・コーが監督として、自らの自伝的小説を映像化した作品だが、僕はこの映画が大好きだ。

 7年も前の映画だし、ネタバレ込みで綴っていくつもりだけれど、そもそも何故この話をしようと思い至ったか、あらかじめ簡潔に述べておく。

・要因1:好きなものの話をしたいから。

 そもそもこのブログは好きなものの話をするために立ち上げたブログであり、最初の記事が存外重い話になってしまったことは当初の想定とは外れている。本来の予定では、初回記事は漫画版貞本エヴァが好きだという話をするつもりだった。エヴァにしておいた方が文脈が生まれるのでよかったと思うのだけれど。(戦場ヶ原ひたぎ

・要因2:友人の結婚式に出席することになったからである。(前記事参照)

 物事には流れというものがある。

・要因3:とある映画の試写会で、この映画と共通するシチュエーションを観たからである。

 映画のタイトルはあえて伏せておくけれど、先日観たとある新作映画があまりにも酷く、同じシチュエーションで素晴らしい描写をした『あの頃』の傑作っぷりを再認識したからである。詳しく後述。

 

     ◇

 

『あの頃』は、主人公がヒロインと関わり出す高校時代から大学、社会人生活を時系列通り描き、ヒロインの結婚式で終幕となる110分の映画である。自伝的小説が原作であるだけに、普通のフィクションよりは〝人生〟成分が強い(これがもし、単にギデンス・コーの描写力に拠るものであるとしたら、純粋に才能だと思う)。上映時間の半分を使って描かれる高校生編以降、主人公とは別の大学に通うヒロインが画面に登場しなくなるため、大学~社会人編はテンポよく進んでいくが、それもまた、結婚式までの流れ(体感時間)の演出に一役買っている。高校生編が密に描かれるからこそ、「成長してしまった〝その後〟」がより印象付けられる。

 そして彼女の結婚式。ヒロインと結婚するのは主人公ではなく、彼は招待客として、高校時代の友人と卓を囲み、懐かしい話に花を咲かせる。式後、集合写真を撮影した同級生と新郎新婦たち。同級生の一人が、「ご祝儀も弾んだし、一度くらい僕らが恋した彼女にキスをさせてくれ」と言い出す。新郎は「彼女にどんな風にキスするのか確かめたいから、まずは私にしてみてくれ」と返す。狼狽える同級生の中、ノータイムで新郎にディープキスをする主人公。驚嘆から笑顔へ変わる新婦。そこから流れるように学生時代の回想。途中、二人を決定的に隔ててしまうことになる出来事のIfを挟み、主人公とヒロインの婚礼衣装姿でのキスシーン。Ifと回想の合間にカットインするキスはそれが実際に行われたかどうかを曖昧にしており、その塩梅がすごく良い。僕はこのラストシーンで完全にやられた。唸ってしまった。積み重ねられた〝人生〟の描写があるからこそ、一瞬だけ重なった日々があったからこそ、それぞれの人生へ別れていくことのどうしようもなさや哀愁が爆発する。

 

     ◇

 

「結婚式乱入/脱走」のような展開は、『卒業』の強いイメージがあるためか、時折パロディ的に使われることがあるように思う。しかし実際、似た展開を用いている具体例を訊ねられると、大元の『卒業』しか出てこなかったりする。だから「よくある」という言葉でその展開を語るのは間違いだろう。

 ――なのだけれど。(戦場ヶ原ひたぎ

 それをやってのけてしまった映画がある。件の新作邦画だ。

 ここで要因3のお話。

 

 僕は某シネコンのweb会員に登録している。そこでは資本力に物を言わせ結構な映画の試写会が毎月行われており、タップ一回で済むので、キャンペーンには余すことなく応募している次第である。三ヶ月に一回くらいは当選しており、これまで当選したのは『ボス・ベイビー』『ランペイジ巨獣大乱闘』、そして今回の映画だ。ボス・ベイビーなんかは、映画館で観る意欲はまずない作品だし、今回の映画もきっと、定額配信サービスにあったら見るかもしれない、くらいの距離にある作品だった。そういう、自分の興味外のものに(無料で)触れることができるのは、試写会応募の楽しいところである。

 今回観た映画、「漫画原作」という特徴的なカテゴライズができる作品なのだけれど、実は僕はそのジャンル映画が結構好きで、定額配信サービスにあるものは見たりしている。ただ、ひとつ補足しておかなければならないのは、その「好き」は結構歪で、つまるところ見せ物小屋の感覚で、常に一歩引いた目で「これは様々な業界の制約から生まれてしまった作品なのだ」「さて脚本はどう組み替えられただろう」「原作の持つエッセンスは……」という冷静さで鑑賞しているのだ。それは特に少女漫画原作に顕著で、テンプレートとも言えるような分かりやすい要素を、チェックリストのように確認しながら鑑賞している。売り出し始めの若い美男美女、売れ線のポップアーティストの主題歌、パリパリの作り物っぽい学生服……。

 漫画原作というものは様々な制約があるだろうが、一番のポイントは、決して短くはない連載漫画のストーリーを上手く換骨奪胎し、二時間の映画に落とし込む、というところであろう。少年向け、少女向けと共にいくつか観ているが、『バクマン』や『アオハライド』辺りは無難に楽しめる映画だと思うし、『るろうに剣心』や『暗殺教室』も原作のエッセンスをそれなりにしっかり汲み取っているのではないかと感じた覚えがある。「原作レイプ」という言葉が広く知られているように、常に漫画原作の実写化には危うさが潜んでいて、しかしそれがある故に僕は面白いと思っている。その点アメコミ映画ってすげぇよな。

 この度試写会で観た件の映画。高校時代の恋人が実は脳に異常を持ち、主人公と別れ手術をし成功したが、18年間の記憶が失われてしまったという展開で、主人公は突然やってきた別れを受け入れられないまま、彼女の所在も分からず社会人になる。地元を歩き彼女の面影を探していると、唐突に彼女を見つける。しかし彼女は主治医との結婚が決まっていた。高校時代の友人たちはインターネットを使って式の日取りと式場を見つけ、当日乗り込む。ご祝儀だと言って主人公とヒロインの想い出のアイテムを彼女に手渡すと、ヒロインは記憶が戻り、式場を抜け出す。同時間、一方の主人公は実家におり、「人生はリセット不可能だけれどリスタートはできる」とかなんとか言って駆け出し、両者道すがら再会。二人は幸せな抱擁をして終幕。西野カナが流れ出す。

 あまりの展開に全身が脱力し、僕は席から立つことができなかった。

 

『卒業』は、決してハッピーエンドとして描かれていない。普通、人様の結婚式に乗り込んで、他者の人生に干渉するなんて有り得ないことだ。いくらフィクションだって、その物語内の論理できちんと整合性が取られるべきである。件の新作映画、冒頭で「倫理じゃない」云々の台詞がまるで伏線のように意味深に配置されていたが、いや倫理だろう、と、この歳になると思ってしまう。果たしてターゲット層である現役中高生があれを見て、そういう違和をすっぽかして感動できるだろうか。フィクションにおいてまで「善/悪」が現実世界と同等のものである必要はないと思うし、それこそが物語の持つ可能性だと思うけれど、当然作中内での理由づけはされるべきだろう。キャラクターの扱い方、描き方含めあまりにも杜撰な部分が多すぎて、こんなものが大手を振るって製作されてしまうことに失望した。この件を友人に話したら「需要があるからこそ作られるんだよ(オブラート)」と返してくれたが、その〝需要〟が生まれてしまうような環境にはやっぱり虚しさや無念さを覚えざるを得ない。

 でもね、前半のコメディパートでめちゃくちゃ笑って、感動(を意図したであろう)パートで声上げて泣いてる子連れのオジサンもいてね、その感情のことまで否定しちゃうことは当然僕にもできなくて、僕の憤りは八方塞がりなんだよね。不毛。でもやっぱり、観客として想定している人たちのことを馬鹿にしすぎだと思うし、或いは、「そんな程度にまで落とされないといけない」と思われているのかも知れない場合、〝そんな程度〟の観客側にも求められるものはあるよな、って思う。この辺り、洋画の日本広告がダサい問題みたいなのとも繋がっているんじゃないのかな、なんて思う。

 

     ◇

 

「好きなものの話をする」と言っておきながら、憂いたり憤ったりの方が多い文章になったけれど、基本的に僕は大抵のことが大体許せないみたいな男なので、座右の銘インクレディブル・ハルクの「いつも怒ってる」です。まぁそんな冗談はさておき、大好きな『あの頃』の話に戻って、今回は締めるとしよう。

 失恋の物語は数多あるけれど、僕の好む形でドラマチックに描き切ってくれる作品は、そんなにないと思う。自身も歳を取り、「失恋」というものが学生時代の一時の話ではなく、成人し、社会人になり、といった、時間が経過した上でのものとしても捉えられるようになったことも関係していると思うけれど、『あの頃』はそういう自身の嗜好(?)に突き刺さってくるものだった。「失恋した勢いで訳もなくバイクで台湾二周する」といったような、台湾という土地柄も見える作りが日本人として新鮮で、面白かった。フィクションであるから、決してあれが台湾のリアルだとは言えないだろうけど、現実の学生たちはああいう空気感の中で生きていたりするのだろうと思うと、違う文化の学生時代に憧れたりもしてしまう。

 何より、「想い人の結婚式」のシチュエーションにおいて、誰も傷つけることなく最高の描写をし切ったことが、この映画を傑作たらしめている一番の要因だと僕は思う。誰も蹴落とさない、他者の選択を尊重しながら、自分の想いを伝える。それって恋愛においては結構難しかったりもするんじゃないかと思う。フィクションだと、他人を蹴落とす、誰かの選択に割り込むなんて手法が見られることもあるけれど(これ、偏見だったら訂正を乞いたいけれど、少女漫画で顕著?)、そういう方法を選ばずにカタルシスを得ることのできる描写には唸らされた。

 その他好きなポイント。ヒロイン役沈佳宜役のミシェル・チェンがすごく可愛くて、ひたすらに画面映えする。とにかく恋愛映画はヒロインのヒロイン力(ぢから)だ、というのはひとつの視点だと思うんだけれど、その点でも素晴らしい。全編に渡ってどうしようもない下ネタが繰り返されるけれど、かつて男の子だった身としては大なり小なり楽しめる部分があると思う。誰もいない線路をぽつぽつ歩きながら二人の距離を探り合う主人公とヒロインのシーンなんかも、静謐で見ごたえのある一場面だと思う。断然僕からの、オススメです。

 

 この映画の国内リメイクが、齋藤飛鳥主演で間もなく公開されるが、果たしてどういう塩梅になっているのでしょう。試写会当たるといいなぁ。

友人の結婚式に出席することになった。

 友人の結婚式に出席することになった。二十数年の人生において、初めての参列である。

 二歳年上のその友人とは、実は出会ってまだ半年も経っていない。それでも僕は彼のことを友達だと思っているし、彼の方だって、僕を結婚式に呼んでくれるくらいなのだから少なからず、知り合い以上だと思ってくれているのだろう(一応、新婦側とも知り合いだったという要因もある)。

 意外にも、初めての結婚式が学生時代の同級生ではないということに驚きはない。それは一重に、例えば自分が結婚するとして、その招待候補に挙がるのは学校という場の外で出会った人たちばかりだからだ。共に暮らしている友人、西の都でアニメをつくっている友人、実は同郷だった友人、映画が好きな友人夫妻。高校の友人で参列してほしい人なんて実のところ、たった一人しかいなかったりする。社交性はそれなりにある方だと思っているし、友達の数も少なすぎるわけじゃないけれど、「結婚式に呼べるか呼べないか」を基準のひとつとした時、その数はきっと、両手で数えたら余りが出る程だ。

 高校の同級生を除いて、先に挙げた友人たちは皆「学校」という場の外で知り合った人たちだ。主にそれは趣味を通じてだけれど、学校のようなコミュニケーションを介さないで知り合った友人たちとは、時間の長さじゃない密度で繋がっているように思う。嗚呼、これは紛れもなく僕の愛の話なのだけれど、どうかご容赦頂きたい。

 友人とは共にいた時間ではないのだな、と大学生の終わり頃から思うようになった。「打算がない学生時代の友人は一生ものだ」というような言葉を聞くことがままあるが、僕にとって大切な人たちは、学外で出会った人ばかりだ。だってその人たちは今、僕が自ら選択して関わりを持っている人たちだからだ。学校で毎日顔を合わせるわけじゃない。愛想を駆使する必要もない。断ち切ろうとすれば簡単にそうできてしまう関係が増えていく人生の段階において、関係を続けたいと(互いが)思えるのならば、それはひとつ、強度を持ったものだと言えるだろう。そう言っても、いいでしょう?

 反対に、学生時代に同じ空間にいなかったら今親しい間柄ではなかったかもしれないと思うのが、先に挙げた高校の同級生だ。彼とは趣味の話なんてほとんどすることはないけれど、きっとこれからも、不動の地位に居続ける縁なのだろうなと、(愛しく)思う。学校という空間が面白いのは、そういう関係性が生まれるからで、確かにそれは打算ではない。でもそれら関係性のほとんどは、歳を重ねてから再会しても「昔の思い出話」しか共通点がないという点で、次第にフェードアウトしてしまうものだよなと思う。悲しくもあるけれど、たまたま重なり合った一瞬があったというその偶然は、想いを馳せる価値のあるものだと思っている。きっともう会うこともないような顔をふと思い出して、過ぎ去った日々を少しだけ懐かしんだりしても、そんな彼ら彼女らとの記憶に、心が揺れたりすることはもうない。

 

     ◇

 

 気づけば「結婚」なんて言葉を自らの身で(すなわちフィクション以外で)、質感を持って耳にしたり、口にしたりするようになり始めた。きっとすぐに二十代は後半だし、そのまま三十代になってしまうのだろう。十代のあれこれの清算をようやく終えたと思ったら、やってきたのは未来への負債と、今を生き延びなければならないための労働だった。精神は未だ17歳で、学園祭の体育館に取り残されたままなのに。


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 もう一生会うことのできない友人のことを、いつだって想っている。

 叶うなら彼にだって、僕は結婚式の招待状を送っていたことだろう。

 三十代になることなく終わった彼のことを、時々、本当に時々、羨ましく思ったりすることもある。生きることは、あまりにも難しすぎて、気が滅入る。

 ずっと続くと思っていた。こんな風に取り留めなく綴る日記を読んでもらおうとしたり、つまらない映画を一緒になって小馬鹿にしたり、生きるのって面倒臭ぇよなって笑ったり、そんな日々をなんとなく生きていくのだと思っていた。

 僕は今、彼のいない都会で暮らしている。僕を想ういろんな涙を置いて、出てきてしまった。自由なんて、本当はそんなにあるわけじゃないのに。「全部捨てたい」と、「全部欲しい」と一緒に、日々を繋いでいる。

 今の僕を、僕の日々を繋ぐのは、僕が「繋いでいたい」と思う人たちの存在ただそれだけだ。その人たちには消えてほしくないし、その人たちと笑っていたいから、僕も消えないでいる。もらってばかりの日々に、いつか恩返しできるようにと思いながら、明日もまた迷って往くのだろう。

 

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。(太宰治『葉』)

 

 この一節が好きだ。いつだってこの言葉と共に、生きている。