sayonarayouth

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WE ARE LITTLE ZOMBIESと小便器

 トイレの小便器に、自分以外の人間がずらりと並んでいる時、僕は小便が出ない。どれだけ下腹部に力を入れても、何人かがその並びから離れたりしないと、栓が閉まっているみたいに一滴も出ないのだ。長久允監督作品「WE ARE LITTLE ZOMBIES」を観た後のトイレで、5つある小便器が自分含め4つ埋まっていた状況で、相変わらず治らない、おそらく一生変わることのない僕の癖を強く意識させられた。

 ※この文章は、映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」の感想となります。

     ◇

 品のない語り出しで大変恐縮なのだけれど、では何故僕はそんな身体になってしまったのか。その原因を僕は、自身の中学時代にあると結論付けている。
 僕の中学校は、地域柄なのか、比較的〝荒れて〟いた。加えて、僕は嫌われていた。休み時間のトイレは、僕を嫌いな僕が嫌いなやつと並んで小便をしなきゃいけない時の方が多かったのだ。
 それに、トイレは〝溜まる〟。学校指定の服装をダッサい着崩し方でキメているようなあいつらは、何時だってトイレに集うのだ。洗面器のデカイ鏡の前でヘアワックスを手に取り、虫の脚みたいな髪型をセットし直すのだ。
 僕は、その鏡に映る目と目を合わせないように俯きながら、退屈な授業と鬱屈の休み時間、どっちがマシかを天秤にかけながら、やつらがトイレを出るまで緊張の糸を張り続けていた。中学生において、教室階の個室を利用するのは本当に緊急の場合だけだ。
 そうして静まり返った男子トイレ、休み時間は気づけば残りわずか。そしてようやく、尿道は拓ける。
 時には、下の学年の小柄な男の子が、いじめられっ子に小便中に後ろに引っ張られて「やめて! やめて!」と懇願している中、尿道の開栓を待たねばならない時もあった。
 僕は彼を助けることなど当然できなかった。だって小便をしに来たのだから。もしも自分が同じ目にあったらと思うとますます身体は強張り、そんな日々を繰り返した結果、現在に至るこの癖をより強固なものにしてしまったのだと思う。

     ◇

 WE ARE LITTLE ZOMBIES。冒頭からほぼぴったり一時間くらいで、主人公たち13歳四人の境遇が描かれる。多少の戯画あれど、描かれるのはきっとありふれた思春期前半の絶望や感傷だ。
 火葬場で出会った四人は互いの境遇を知り、ひょんなことからバンドを始める。そのバンドを通して、彼らは心の傷を癒さないし、生きていることを実感しない。
 彼らの境遇は商品となり、消費されていく。ここで昨今のSNSを取り巻くあれこれの話を僕はしない。映画におけるそれにまつわる表現も、極めてありふれたものだからだ(語弊があるかもしれないけれど、貶しているわけではありません。ありふれたもので人は死ぬし、救われたりもします)。
 この映画が、「トラウマ解消ムービー、つらいこともあるけれど、生きるって最高!」な映画でないことは、一見すると判断しにくいかもしれない。
 なんといってもアートワークの大半を「ドット」が占めているからだ。ドットはなんとなくポップに、コミカルに見せるし、キャラクターの表情(が表す感情)みたいなものを読み取りづらくさせる(≒受け手に解釈を一任する。ドットゲームのイベントシーンなんかを思い浮かべてほしい)。でもこの映画は間違いなく一種の劇薬で、友達とワイワイ観るようなものではないと僕は思う。一人で、身構えて観るような、そういう映画だと思う。

 僕は葬式のシーンが好きだ。この映画的に言えば、〝エモい〟のだ。これはおそらく単なるフェチシズムなのだけど、故に火葬場の一連のシーンで、どうしようもなく泣けてしまった。随所に挟まれる8bitRPG風のゲーム画面も、〝エモさ〟に拍車をかける。これは単純に、好きなガワのお話。
 高校生よりさらに幼い子供たちの群像劇、例えば「害虫」、燃え盛る炎をバックに踊るイクコは「台風クラブ」、線路を走る彼らはまさに「STAND BY ME」……なんていう具合に、観ていて様々に想起される名作たちの、現代アップデート版とも言えるような端正さと美しさがあった。恥ずかしながら未プレイなのだけど、「夕闇通り探検隊」のようなゲームとかも、影響下にあるのかなぁ。
 台詞回しは舞台寄りだなと思ったし、観客に対して向けるモノローグの多用に見られるように、かなり自由な枠組みで物語が進んでいくあたりも、この映画全体がさながら、作中で象徴的に挿入されるMVのようだなと思ったりもした。
 しかし中島セナがいい。目線一発が強すぎるの、人間合格って感じ(?)。田渕ひさ子的とはある種言い得て妙だし、存在するだけで人を惹きつけてしまうような魅力みたいなものが、まさにイクコというキャラクター足るなぁと思いました。ああいう子、きっと現実にもいるし、僕も惹かれちゃうんだろうなぁ、嗚呼……。
 ああいう制服、マジでいいよね、フェティッシュな。第3新東京市立第壱中学校みたいな。

     ◇

 BURNOUT SYNDROMESというバンドに「ハイスコアガール」という曲がある。

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 映画を観ている間(無論そのアートワーク含め)、この曲のことが頭から離れなかった。劇場を後にしてすぐ、これを聴いた。
 こちらの曲はとてもポップで、前向きだ。めちゃくちゃ簡潔に言い表せば、「時として残酷な世界にも、放て昇竜拳!」みたいな曲だ。リトルゾンビーズが(描写として)突きつけてくるような毒気は、こちらにはない。

 それでも、僕は通底するものは変わらないと思う。

 突き詰めれば結局、「君たちはどう生きるか」なんていうくだらない一言で言い表せてしまうような、僕たちの、くだらなくて、一生付き纏う、地獄みたいな問いと、どう向かい合うかということなんだと思う。
 そしてこの「WE ARE LITTLE ZOMBIES」という映画は、間違いなくそれと真っ正面から向かい合おうとしていた映画だと思う。
 例えば「電通」という単語ひとつで、この映画の内容や表現に対し穿った見方をする人はきっといるだろうし、某300万ゾンビ映画みたいに、誰もが楽しめるような仕掛けや楽しさがある映画ではないかもしれない。
 僕だって、この映画を「へぇ~、映画よく観るんだぁ。最近のおススメは?」って言ってくるような奴には絶対に勧めないし、「すごいよかったから観て!」とSNSで拡散したいとはあまり思わない。

 でも僕はこんな風に書き残す。果ては作り手にも届きますようにと少しだけ祈りを込めながら、ひっそりと書き記す。
 一人で観て、「多分ここで泣いてるの、この映画館で俺だけだろう」ってシーンでひっそり泣いて、小便が出ない理由に過ぎ去りし遥か思春期を思い返すような、そういう映画だと僕は思う。褒めてんのか貶してんのかよー分からん書き方かもしれないけれど、興行をハリウッドが占める中で、2019年、都会のアスファルトや、「ここには何もない」と毒づく郊外や、色のない教室に生きる、他ならぬ僕ら日本人が(ここに政治的意味はない)観るべき映画だと思う。
 誰かにとっての毒か薬かになり得る、真摯な力を持っているものだったと、僕は思う。
 絶望と絶望だっさの繰り返しの中で。
 諦観と「それでも」の間で。


「ハイテンポな日々に足が縺れても 踊り切れ
 不格好に 自前の妙なステップ踏んで」
 ハイスコアガールBURNOUT SYNDROMES


 僕を笑った小便器隣のあいつらが、どうかこの映画を理解できませんように。

Netflix アンブレラアカデミーを観た。

 Netflixオリジナルドラマ「アンブレラアカデミー」、一歩遅れながらもようやく観終えた。

 マイケミのジェラルド・ウェイ原作ということで、「Welcome to the Black Parade」が好きな僕は数年前にコミック1巻の邦訳版を読んでいたのだけど、当時から実写映像化したら面白いだろうなと思っていた。というのもやはり、DCやマーベルとは多少毛色の違う(つまりダークホース色ってことなのかしら?)雰囲気が、同じアメコミ原作括りでも特徴あるアイデンティティになるだろうなと思ったからだ。

 実際にこの度実写化したということで、僕も改めて原作コミックを読み返してから全10話10時間近くを通して観た。

 正直、思っていたのと違ったなぁという感想です。

 予算や、ドラマシリーズという構成故だろうか。原作の、まさに「スーパーヒーローもの」といったビジュアルや展開は、そのほとんどがスポイルされてしまっていた。

 代わりに前面に押し出された要素は、「家族の話(原作にもある)」と「ミステリー(原作にはほぼない)」。しかも、それが実写化において丁度良いアレンジだとは、少し言い難い感じで。

 以下、比較を交えながら感想を残しておきます。ちなみに、邦訳のなされていない2巻以降の話は読んでいないので、比較は原作1巻「Apocalypse Suite」に限定されます。せめて2巻以降の作中時系列が分かればなぁと思うんですが、原典英文の情報は調べるのに骨が折れます。訳しながら読むの、漫画のテンポ感を落とすやり方なので好きでもないし得意でもないんだけど、キンドルで2巻が安いので買おうかと思っている。

 

     ◇

 

 僕は原作コミックが割と好きで、大筋はありふれていながらも、「スーパーヒーローもの」「家族のドラマ」と言ったテーマを少しずらして用いているところに興味深さを感じました。あえて深入りしない設定も多く、膨大な情報を最低限の描写で表現しており、その割り切った感じも結構好みではある。

 ドラマ版も大まかな大筋は、原作1巻と変わらない。

 世界中で、妊娠していなかった女性たちが43人の子供を出産、そのうちの7人をとある資産家が養子にした。超能力を持つ養子たちはアンブレラアカデミーと名乗りヒーロー活動を開始。それから月日が経ち、資産家の男が亡くなった機にそれぞれの人生を生きていた兄弟たちが再び集まる。未来から帰ってきた兄弟の一人が「あと数日で世界が終わる」と言い、それを止めるために兄弟たちが団結する……。

 団結、と言っても、原作においては、終盤の山場における一時の団結をきっかけにして、これから少しだけ兄弟たちの確執が融解していくのだろうな、くらいの終わり方で。僕はその殺伐とした塩梅が好みだった。

 ドラマ版はおそらく、上記に2巻以降のキャラクターや展開をアレンジして取り入れ、尺を稼いだのだろうなという印象。

 

 原作は、エッフェル塔が発狂するところから始まる。物語の〝引き〟として満点の導入だと思う。そしてこの導入で、ヒーローの子供たちが世間に対してどういう立ち位置なのかもおおよそ示される。1話の最後で時系列が現在へ飛び、「世界の終わり」を軸にした家族の物語が始まる。しかしドラマ版においては、ビジュアル的にも新規層を惹き込めるであろうその展開は丸々なく、セリフで語られるだけだった。ドラマだから仕方ないかとも思うが、しかし個人的にはこの展開、この要素こそアンブレラアカデミーの強烈なアイデンティティなのではないか、と思っていたので、残念だった。 

 ドラマ版は、原作における「世界の終わり」の直接的な原因となるキャラクターを導く人物が大幅に変更されている。コミック版は判りやすくコミックの悪役然とした人物であったが、ドラマにおいては、UAに個人的な思い入れがあり、それが恨みに転化したという、シナリオ的に非常にお行儀のいい、なんともありふれた人物になっていた。コミックにおいては、その人物自身のバックグラウンドは特段フォーカスされず、ある種の引き立て役として死ぬが、ドラマ版は尺稼ぎのためにその人物の過去が挿入されている。

 

 ――と、何度も「尺稼ぎ」という印象の悪い言葉を用いているが、僕がドラマ版に抱いた最大の感想は、何を隠そう「いやこれ2時間映画で良くないっスか」だったのだ。

 あまりにも間延びして、回りくどくて、冷静に話し合えば解決するだけの話をいつまでも引き延ばしている、そういう印象を持たざるを得なかった。

 いわゆるクリフハンガーとして、度々「実はこうだったんだ!」と展開されるが、正直特別な驚きもなく「まぁこの場合誰が考えてもそうでしょうね」となるに過ぎない。コミックにおいては、出来事を特別引き延ばして読み手を惹き込むといったやり方は取らないので(ページ数的の制約にも当然だが)、コミックの展開のスピーディーさと、そもそも相性が悪いように感じた。

 これを2時間の映画として、VFXやビジュアルに予算を割き、タイトに纏めたらどれだけの名作だっただろうかと思うと、なんだか口惜しい。 

 

 ただ、ドラマ版で良かった点もある。霊と交信できるジャンキーのキャラクターが、亡くなった兄弟の霊といつも行動している、という変更点だ。原作においても兄弟の一人が物語スタート地点から亡くなっていることには変わりないが、彼が現在進行形のドラマに絡むことはなかった。しかしドラマ版では、物語終盤にその霊を具現化させるという展開にまで至る。正直このシーンだけは鳥肌立った。僕個人の好みでしょうね、ええ。

 このジャンキーキャラ、(尺稼ぎの一環として妥当だろうが)原作よりフォーカスが当てられていて、何ならちょっと優遇されていた。コメディリリーフとしても分かりやすく人気を得そうな立ち回りで、果ては「創造主」と会話する展開まで用意されているんだから、オイシイの一言だ。

 ところでその「創造主」、ビジュアルが白いハットにワンピースを着た中東系の少女が自転車に乗ってやってくるという表現をされていたのだけど、これってキリスト教圏的にはどうなんですかね、詳しい人いたらご教授願いたいものです。

 

 で、最後に……。

〝観終えた〟と言ったんですけども、この10話、物語的には完結しないままブツ切りで終わったんですよ。「インフィニティ・ウォー」で例えるとサノスが指パッチンした瞬間にエンドロールみたいな感じ。ポスト・クレジットも無しで。

 これ、ひとつの作品としてどうなんですかね。例え続きものだとしても「シーズン1」という括りをしているのならそこで一区切りつけるべきではないんですかね? 10時間観て「結末はネクストシーズンを待ってね」ってアホらしくないですか?

 原作の多くの要素をスポイルして連続ドラマフォーマットに変換した今作、正直なところ、「多少の超能力を持っているらしい養子たちの家族のいざこざ」にしか見えなくて、スーパーヒーローの定義として第一のはずの、「市井の人々を救う」という描写が全くないんです。

 というのも、UAという集団は物語において既に過去のものとなっていて、現在進行形では市井の人々と関わらない(その描写が薄い)からで、それは原作においてもそうなんだけど、原作は余計な要素をひたすらそぎ落としてテンポよく見せているから気にならないんですよ。でもドラマは10時間分、感情的になってはすれ違うという展開をひたすら見せられて、挙句にオチすらついていないなんて、それはちょっとあんまりだなぁと思う。

 いや、そもそも「物語が完結していない」というのは内容がどうとか関係なしに、視聴者に対する一種の裏切りではないかと思う。これは「この物語には続編がある」とは違う。指パッチンをしたらせめてサノスが満足げに笑みを湛えるところまでは見せ切るべきじゃん。もっと言わせてもらえばMCUじゃないんだからエンドゲームのエンドロールまで描き切らないとダメじゃないの? と思うわけです。(例えが分かりにくい)

  シーズン1最後の展開は、原作と異なっているんだけど、正確には「異なります!」って言った瞬間にエンドロールなので、収集は㍉もついていないし、最初からシーズン2が決まっていたならともかくとして、ポシャったら完全に「エタった」黒歴史確定だったよ。まぁそんなことあるわけないか。最初からシーズン2は決まっていたんでしょう。じゃなきゃ普通、あんな最終回にするわけないよね。

 原作ファンとして、映像化を楽しみにしていたのに、これじゃあ「原作と比較」も片手落ちだよ。ドラマもオチてないんだから感想も抱くに抱ききれないし、纏めるに纏め切れないよ。なんだかなぁ☂ 

 いやでもこれ、僕が米ドラマの基本や通例を知らないだけなのでは?

「ミニアルバム制作予定」について

 オリジナル曲のミニアルバムを作ろうと、DTMで音源を始めて早3年くらい。気づいたら大学も卒業していた。

 大学の頃知り合った友人は今月ボカロのフルアルバムを全国流通させるし、既に何曲か楽曲提供を行っている。(まじですごい。おめでとう。これからも頑張ってほしい)

 一方こちらは、パソコンのスペックが足りなさ過ぎて録音中に止まる、だとか、ミックスの技術がなくて、だとか、いろいろ言い訳しながらダラダラと時間は過ぎ、僕はどんどんと歳を取り、作るものはどんどんと色褪せている。これは本当に危険なことで、当時書いた詞も今となっては乗り越えたり答えを出したりしたものも多くて、まさに言葉通り色褪せてしまうものがあるのではないかと恐れている。

 完成させる、ということは本当に大切なことなのだろう。だからいい加減、己に発破をかけようと、収録予定の曲を4曲、デモ段階でもいいからとにかくネットに上げてしまおうと手を動かした。

 昨日、「マキシマム ザ ホルモン2号店」という企画のYouTube動画の最終回を観た。詳細な説明は省くけれど、そのライブ映像で、僕は泣いてしまった。久しぶりに、音楽っていいな、なんて、ベタなことを思わされてしまった。それもまた、理由のひとつ。

 

 僕には特別な作詞曲の才能はない。ここでいう才能とは、学生時代になんとなく作ってみた曲が方々から褒められちゃって自信を持って本格的に頑張り始める、才能に惚れ込んだ「仲間」が最大限協力してくれる、みたいな意味合いで、僕は別にこの才能という言葉に囚われているというわけでは決してないので悪しからず。

 そして、じゃあ才能はないからめっちゃ努力しよう、とはならなかった。何故なら「音楽が好き」いう言葉に釣り合うほど、僕はいろんな時代のいろんなジャンルの音楽にあまり興味が持つことができないからで、結局今だって、繰り返し聴いているのはアジカンベボベバーンアウトくらいで、「音楽を追求」したいほどの情熱は結局なかったのだ、と振り返ってみれば思う。

 だから僕の作る曲が何かのエポックメイキングになることなんて勿論なければ、十代終わりの頃のように「オレの曲をみんなに届けるぜ! 有名になるぜ!」みたいな気概も今やすっかり失われてしまった。

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 六畳の六弦は世界を変えやしないけれど

 せめて大好きな人たちに伝うように

 屋上で讃えた世界の青さとか

 手に入れたものや失ったものの思い出を詰めて

 

「like a cream soda」という曲は、制作予定のミニアルバムの一曲目に収録される予定で、この曲のサビに当たる部分で僕はこんなことを書いた。

 僕はかつて後藤正文になりたかった男なので、オレの曲で世界を揺らしてやるぜ、と意気込んでいた季節もあったのだ。成長というものは残酷なもので、次第に自分が井の中にいると気づかされ、頑張って這い上がってみたところで広がっている大海はあまりにも途方が知れず、「ちょっとオレお門違いかしら」とか慎ましく挫折したりしてしまう。でもそれはそれで必要な経験で、じゃあ音楽を突き詰めることができない僕には実際のところ何があるのだろう、と、改めて足元や足跡を確認してみると見えてくるものがあったりする。

 そんな齢24の男が己から発信しようとする「音楽」とは、詰まるところこの歌詞程度のとても狭く小さな範囲でのことで、でも僕は今となっては、それでいいと思っている。

 

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あれから月日は過ぎたけれど、そちらは元気でやっていますか。

こちらは相も変わらずの、それなりな毎日です。

夢を抱いて旅立った彼女や、育った町で生きると決めた彼や、

もう二度と会えないあの人を浮かべながら、手紙を綴るように。

 

 つまりは、少し陶酔の混じった、ささやかな私信なんです。

 

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才能なんて多分無かったけど 思い出だけはどうにか傍に在る

17の空は今もこの胸の中 その下で咲き誇れコレオプシス

 

 なんていう青臭いこの歌詞はこの曲の白眉なんですが、白眉なのは僕自身や「コレオプシス」という文脈が理解できる人だけという大変内輪めいたものとなっている。

 向井秀徳ナンバーガール20周年リマスターの帯で「これねぇ、もう一言で言わせてもらいますけども・・・・・青春なんですよね。すみません、青春です」と言ったが、そういうことなのだ。彼と僕とには天地の差があるが。

 

ミニアルバム「sayonarayouth」

1 like a cream soda

2 Cocytus

3 E.O.A.

4 coreopsis(love letter from summer memories)

5 Moratorium of the dead!!!!!

6 Storm girl

 

 これら曲を、近々ライブでもやれるように現在バンドメンバー集めから練習の計画を立てています。ひっそりとやっていきますので応援よろしくお願いいたします。

『センスレス』の話

 ASIAN KUNG-FU GENERATIONは中学生の頃からずっとずっと好きなバンドだ。アジカンにまつわる思い出や、その「好き」を連ねるだけで長文が完成することは間違いないのだけど、今回はあえて記事タイトルの『センスレス』という曲についての話をしたい。

 バンドというものは、キャリアが続いていけば当然曲の数も増えていき、その中には、いつしか全くライブで演奏されなくなってしまう曲もある。アジカンにもそういった曲はたくさんあるが、2006年に発売されたキャリア3枚目となるフルアルバム、『ファンクラブ』に収録されているセンスレスという曲は、今でも定期的に演奏されている。セットリストがアーカイブ化されているサイト「LiveFans」で曲名検索するだけで、それは容易に分かる。*1

 演奏され続ける曲/されなくなる曲は当然、バンド内外の様々な理由によって決定していくのだろうし、詳細な理由は詰まるところバンドメンバー、或いはフロントマン後藤正文(=ゴッチ)にしか分からない。ただ、そんな中で、演奏され続けるセンスレスという曲は、少なくともバンドやゴッチにとって特別な意味合いを持ち、演奏し続けていく価値や意義があると考えられている曲なのだろうと思う。もちろんその時々のムード、或いは世間の情勢の反映なんていう意図もあったりするのだろうけれど。

 ファンクラブというアルバムは、一般的に現在までのキャリアの中で最も暗いアルバムだと言われている。白と黒を基調としたモノクロのアルバムアートワークや歌詞から、それは大方事実だろうと言えるし、このアルバムにまつわるゴッチ自身のインタビューやブログやらで、それは証明されている。(なんて断言しちゃうけど、過去の文献見返したりはしていないです)

 絶望や諦観が塞ぐ内省の先で、それでも希望を歌おうと足掻く後藤正文(ロン毛)の姿(や、様々な媒体から浮かび上がる彼の苦悩や人生そのもの)は、当時の僕にはまさに「ロックバンドの人」然として映り、無限に憧れていた。僕は後藤正文になりたかったし、同じ静岡県出身だということに勝手に運命を感じていたし、ベースの山ちゃんは地元出身で運命は倍掛けだし、当時付き合っていた女の子と江ノ電でサーフブンガクカマクラを聴きながら江の島や鎌倉へ行ったり、作る曲や歌い方がアジカンまんまだって言われたりと諸々、痛々しさや若々しさ全部込みで、ずっと好きだった。

 ほら、ちょっと気を抜くとすぐ「好き」を語り出しちゃう。

 といった具合に、もはや客観視はできないバンドなんだけど、今日はそんなアジカンの新シングル「Dororo/解放区」の発売日で、この『Dororo』(アニメ『どろろ』主題歌)も、アジカン自らが「パブリックイメージのアジカン」を意識した上で開き直ってアジカンの手癖で作った、ように見せてちゃんと考えて作り込んでいる、みたいな「それではまた明日」~「ブラッドサーキュレーター」に連なるド直球のアジカンみがたまらなくて、2分41秒とか足りなすぎるよ!という話なのだけれども、このシングルの初回盤についてるブルーレイ映像特典には、件のセンスレスのライブ映像が収録されている。

 

 約一時間収録されているこのライブは、スペースシャワーの企画で、350人ほどの招待客の前でこぢんまりと濃密に演奏がなされるスペシャルライブのようで、収録日は2018年11月27日。2019年が近づいてもセンスレスはちゃんと演奏されている。(というか直近ゴールデンウィークのライブでも演奏された)

 そしてセンスレスはその映像の一曲目なんだけども、僕はこの演奏を観ながら、「ああ、あの頃とは違うんだなぁ」と思ってしまった。

 

 ようやく本題です。

 

 何が「違う」のか。予め断っておくけれど、これは単に僕のお気持ちに他ならない。取り留めのない雑語りを、同じように想う誰かにあわよくば見つけてもらいたくて、ひっそりとインターネットに投げる、そんな程度のものだ。

 あの頃――つまりファンクラブ~ワールドワールドワールド期にライブで演奏されたこの曲には、その歌声には、間違いなくその歌を作った、その詞を書いたゴッチ自身の魂の叫びと言えようものが乗っかっていた……と僕は想う。

 

 世界中を悲しみが覆って

 君に手招きしたって

 僕はずっと

 想いをそっと此処で歌うから

 君は消さないでいてよ

 

 今読めば青臭さすら感じるこの詞を、しかし彼は本気で書いて、本気で歌っていたのだと僕は思う。曲がりなりにも僕は、一回りも二回りも下の歳ながらも、彼の真摯さを、愚直さを、ずっと追いかけ続けてきたつもりだ。だから、この想定には少しだけ自信がある。

 インターネットの普及と情報の氾濫、世界中と繋がることができるということ、それでも尚、孤独は消えない/癒えないということ、9.11を画面越しにしか知らない僕ら、「君繋5M」から連なるそんなテーマを内包するファンクラブ。その中でも頭一つ抜けた存在感と〝メッセージ性〟を持っているセンスレス。(とブラックアウト*2

 

 当時のライブ映像では、白抜きのカタカナが巨大なモニターに高速で流れ続けるセットを背景に、青や紫、時には赤黒い照明の中、陰鬱な曲調の詞が歌われていた。

 このセットにしようと思い至ることが既に、当時の彼の思想や意識を表していると僕は思う。

 

 でも、2018年のこのライブは。気持ちスローテンポになった演奏。当時のがなるような歌い方も今やすっかり消え去り、ゆったりと、どっしりと伸びやかに歌われる詞。

 そこに居る後藤正文は、己の内へ内へと眼を向けていたあの後藤正文ではない。

 そう、彼は「乗り越えた」のだ。この曲は〝過去〟であり(同時に現在へと間違いなく続くものであるだろうけれど)、当時の苦悩がそのまま乗せられることはもう一生ないのだ。

 だから「違う」のだ。この曲は、決定的に、もう違うのだ(本質的には「新世紀のラブソング」の時から既に違っていたのだろう)。ここにはもう、当時以上の想いは乗らない。この曲に自分自身を同期させて奮い立つのは、今この瞬間じゃない――その役目はまさに、アーカイブ化された「過去のライブ映像」なのだろう。

 そして、それはどこまでも正しい。今のゴッチは、「荒野を歩け」を生み出し、「ホームタウン」を歌い、「夜を越えて」を〝気持ちを込めてもう一回〟演奏し直すのだ。彼はそういうステージに進んだ。僕はそんな後藤正文に、やっぱり変わらず力をもらっている。これからもずっと、追いかけていく。

 そして、当時とは絶対的に意味合いの変わったセンスレスに、ほんの少しだけ寂しく思ったりもするのであった……というお話でした。

 

 追記:記事がちょっと伸びてるのでエントランスのカバー貼っときます。

soundcloud.com

*1:ちなみに僕の大好きなワールドアパートという曲も、センスレスと同じアルバムに収録されているが、上記サイトには2011年以降の記録がない。

*2:ワールドアパートも……って言いたいんだけど、ゴッチはワールドアパート好きじゃないって言うし……。あれ以降、この曲のゴッチ自身の評価って覆ったりしたのかな。

区切り

 順番待ちの列や飲食店の隣の席から聞こえてくる他人の会話が好きだ。

 会話だけを頼りに関係性や思想なんかを探っていくのは楽しい。

 ずばりそれは盗み聞きと呼べる行為だろう。悪趣味? 知らね。

 

 近頃大流行りの、とある行列に並んでいた時のこと。

 真後ろについた大学生男女は、どうやら恋人同士ではないらしい。派手な服色をした女の子には彼氏がおり、金髪の男の子は19歳らしかった。

 男の子は、将来金持ちになるための作戦を夜通し友達と語り合ったことを自慢げに話す。「オレって普通になれない」「みんなに普通じゃないって言われる。多分そうなんだと思う。つるんでるヤツらみんな普通じゃないし」「お前はめっちゃ金持ちになるか貧乏になるかのどっちかだ、って言われたことある」なんてことを、恥ずかしげもなく隣の彼女に語る。大学のクラスにいる地味な同期たちのことを「芋」と呼び、軽蔑の言葉を並べる、即ち「オレはあいつらとは違う」。

 女の子は如何にもな返事をして、「ジャグジー付けて、スピーカーにこだわったシアタールームも作る」構想のある豪邸に住むようになったら遊びに行くね、だなんて言ったりする。

 そして極めつけ。彼は「芥川賞」の受賞を目指しているのだという。拙い説明で語り出されたあらすじは、「片親で育った主人公は亡くなった親の遺品整理をしている最中、遺書を見つける。その遺書は、大学受験に失敗した主人公の親がコインロッカーで主人公を拾い育てたこと、仕事ばかりで主人公の相手を充分にしてあげられなかったために、家を飛び出され成人を祝うこともできなかったが、そんな人生は存外悪くなかったと回顧するもので、それを読んで主人公は心が動く」みたいな内容で、タイトルはずばりそのまま〝存外〟らしい。

 ちなみに、後々芥川賞を受賞した彼が、この文章を訴えてきたら堪らないので、一部ぼかしました(笑)

「そんなオレが今夢中になって読んでいる本は」とカバンから取り出された書籍の著者は、メンタリストDaigo。

 

(笑)

 

 だけど、僕はこれを、笑い話で終わらせることはできない。彼が夢想するその将来や、曖昧な根拠から規定する自己のことを、一笑に付すことはできない。だからわざわざこうして、文章に書き残そうとしたりなんかしてしまうわけで、19歳の彼と、今年25歳になる僕を隔てるものはなんなのだろうと、大真面目に考えてしまう。むしろなんなら、僕は彼に負けていさえするのかもしれない。都会で学生生活を営む彼は今頃、そんな風に語ったその口で、彼女をベッドに誘った後かもしれない。いずれ本当に金持ちになって、人は顔や身長じゃないんだと自信を持てるようになるのかもしれない。金に群がる馬鹿を抱いて、それでも彼が満たされて幸せならば、グズグズと悩み続ける僕なんかよりもよっぽど、人生を上手にこなしていることになるのかもしれない。

 

 FAHRENHEIT 451

 

 お前に文学賞なんか獲られたくねぇよ。

 彼が「芋」と呼ぶ同級生の誰かはきっと、そう想っているに違いない。――いや、或いはそれは。

 

     ◇

 

 こんな僕を、あなたはどう想うだろう。とやかく理由をつけて「僕の〝夢〟こそは現実的で、努力を続ける価値がある 」のだと停滞し続ける僕に、あなたはなんと言うだろう。あなたがもし、僕に遺書を残してくれていたのなら……なんて、これは正直、上の文章と繋げたら面白いかもと思って何となくタイピングしてしまっただけで、実際思ってない。僕はおそらく、あなたに対してウエットすぎる。「大きなお姉さま方奮起しちゃうよ」なんて、笑い飛ばしてくれたらいい。

 迷い続けている。悩み続けている。正解はなくとも、何が最善なのか、ずっと探している。その旅路に、あなたがいてほしかった。これは、本当の気持ち。

 あなたの墓前で、手を合わせた。学生を終えてからの人生で、一番いてほしかったのは、やっぱり他の誰でもなく、あなただった。

「ひとつの区切りとして」誘ってもらったお墓参り。そもそも死は区切りだ。そしてその区切りに区切りをつけることは、人間の営みとして当然のことだ。

 でも僕はあえて、あえて言おう。返す言葉の意味が、もらった言葉と全く対応していないことなんて百も承知で、それでも、言おう。

 区切りなんてつかない。

 折り合いはつけない。

 死も、思春期も、青い春も、夢も、希望も、欲望も、過去も、悲哀も、

 折り合いはつけないまま、歩いていく。

 そうやってずっと、一緒に生きていきたいと、今は思う。

Beautiful Dreamer

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を見返した。押井先生、やっぱり止め絵で淡々と会話させるシーンが多いなぁと感じる。その点において『東京無国籍少女』は退屈だったんだけど、こっちは映像に時代の質感があるから見ていて飽きない。

 改めて見返して思ったのは言うほど「ループものか?」ってところで、繰り返しの中にある僅かな違和や差異をヒントにループ脱出に向かうようなゲーム的なものでは別にないし、ループしているが故の悲哀なんかが特別あるわけでもない。(とはいえ自己言及性においては親和性高いよね)

 そしてやっぱりそこがいいところで、「学園祭の前日のような楽しい日々を、〝みんな〟と一緒にずっと過ごしていたい」っていうシンプルな願望は、とても眩しい。

 開き直ったように崩壊した世界で、開き直ったように遊び惚ける少年少女たち。黄昏時、給水塔の上から崩壊した世界を〝みんな〟で眺める。とても美しい一瞬だと思う。

 実際の70~80年代の学生生活があんな感じだったのかどうかは分からないけれど、「僕ら」の青春とは違う土台、前提があったんだろうなぁと思うと、決して経験できないその時代に想いを馳せたくなってしまう。偽りのノスタルジー

 

 高橋留美子のつくる女性キャラクターは本当に可愛いですね。最近そこそこ流行りの、瞳の真ん中が白抜きの目、BD作中でその省略のされ方が結構あって、可愛いタッチだなぁと思うんですよね。

 

 その夢から、抜け出さなくてもいいと思うよって、今の僕なら言えてしまう、そんな気もする。現実に帰るのなら「責任取ってね」なんてさ、無邪気でいいよなぁ。

 作品にまつわる諸々の逸話含め、好きな作品です。しかし「ハルヒ」、まんまBDなんだなぁ。

「自分と関係のない感傷」の話。

 相当ふわっとした話なのだけど、物語が感情で動くタイプの創作物において、「このキャラクターの悩み、どうでもよくね?」ってなることたまにありませんか。そしてそう思ってしまう時って大抵その物語自体に自分がノレていない時だというか、言い換えればキャラクターに何の共感も感情移入もできない時だと思うんです。

 ある物語の素晴らしさの基準に必ずしも共感や感情移入があるわけではないとは当然理解しているつもりだけれど、どう考えても「これはきっとあなたにも心当たりあるはず/あなたに寄り添ったドラマです」みたいな作風のものってありますよね。今回はそういうものに出会った際のお話。

 

 

 友人が勧めていたとある舞台を観に行ってきた。特別劇場用に拵えたわけではない空間を利用して、観客は少人数、代わりに舞台と客席には言葉通り同じ空気が流れるような、目の前の物語がとても近い作品だった。

 結論から言うと、僕にとっては面白くなかった。別に捻くれだとかそういうんじゃない。とある賞を獲っている脚本だともいうから、当然客観的にある程度評価されているものらしいということも分かっている。それでも、観終わった後に残るものが何もなかった。

 その物語は、その劇場の作りからも伺えるように、きっと「あなたの人生に近い」物語だったのだろうと思う。その物語のシチュエーションそのものの経験はなくとも、類似した過去がどこか重なって、自分自身を振り返ることができるような、そういう作りであったように思う。

 僕には、目の前のそんな物語に乗っける気持ちや過去が1グラムもなかった。彼らの感傷が遠く、何に真剣になっているのか、捉えることが出来なかった。

 舞台は、登場人物の大学卒業と同時に、それまでの生活拠点だった場所が取り壊されるという筋書きで、その出来事に付随した、住人たちの心模様が、二時間とちょっとで描かれる。

 

 僕はどちらかと言えば大学が嫌いだったし、大学内に、どっぷり浸かり込めるようなコミュニティを持たなかった。だから、目の前で繰り広げられる登場人物の叫びを、白々しいものにしか思えなかった。

 どうしてそんなどうでもいいことで悩んでいるの? なんて酷い言葉だろうと思うけれど。

 そんな風にノレなかったのは、ひとつにドラマが終始感情で動き、実際行動に現れることや解明される事実のようなものがほとんどなかったからだろう。キャラクターが悩んでいる出来事が、客にとってふわふわしすぎている。中盤、めちゃくちゃブチ切れるキャラクターがいるのだけど、ブチ切れるに至ったらしい過去の出来事が、結局最後まで明かされない。それは語るべき必要のないものという作り手側の判断で取捨選択されたもののうちのひとつなんだと思うけど、「どうしてその感情を今抱いているのか」という因果を明かさないのって、僕は不足ではないのかな、と思う。それを観客個々に委ねるのは少しぞんざいに思える。

 物語はほとんど、「過去何があったか」は語られず、4人のメインキャラクターの「現在の心持ち」にフォーカスが当てられるんだけど、リアルに近いものを描くなら、尚のことバックグラウンドをふわっとさせといてはいけないでしょうと思えて仕方ない。加えて、学生が終わること、終わってからのそれから、に悩んでいる割に、それに対しての行動は何も描かれず、とりあえずみなその住処を去っていくという結末しか描かれない。場転なしの一空間だけの芝居においてできることは限られているかもしれないけれど、人間(=キャラクター)結局どう行動するかなので、心持ちが変わりました~だけでは変わったことにはならないですよね。いや、究極別に変わってないですよっていう表現意図であればそれは正解だろうけど、そんな物語ではなかったはず。

 この脚本のどこが、賞をもらった理由なのか、僕には分からない。純粋に空間の使い方だとか、会話劇の完成度とかが評価されたってことなのかな。僕はこれが普遍的な物語だとあまり思えないし、現代の大学生の感覚に近いものとも思えないんだよね。それこそ、昭和の人たちのノスタルジーで評価されたんじゃないの、とか、穿ってしまったりもする。二時間あれば、もうちょっと描くことができるものがあると思うんですけど、賞取った作品に素人がなんか言うのも野暮ですね。

 結局のところ、「きっと普通に幸せになっていく」ことに悩んだり、「想い人に想いを伝えないで別れる」こととかに、もうあんまり体重乗っけない自分の視線が極めて冷静なものであるだけなんだろう。二浪して大学に十年もいる30のおばちゃんキャラに人生説かれてもなぁ……って、なるじゃん。そのおばちゃんがそれからどういう人生歩むか描かれるわけでもないのに、感動も何もないでしょう。お前の悩みはお前が悪いじゃん、しか言えない。30歳の留年生を慕うことなんてまずないと思うんだよね。そのキャラ付けなんか昭和っぽい。どうせなら彼女のキャラクターだけは湿っぽくない超越性持ってた方がいいと思うんだよね、それってアニメっぽいかしら。

 まだ高校生キャラクターの方が純粋に希望もらえるな、とか、思っちゃう。

 いやぁ、でもやっぱり自分と1ミリも関係ないキャラクターの悩みでも、因果ちゃんと描かれていればドラマとしては感動できるよなぁ、なんだかなぁ。

 

 

 私信。勧めてもらったのに、こんな感想しか出ませんでしたが、繕うのは真摯ではないと思うので、何卒。