sayonarayouth

twitter @aokaji_soda

「来る」の悪意―「ぼぎわんが、来る」との差異

 劇場予告で知った『来る』、溢れ出る「洒落怖」感に魅かれ観に行ったのだけれど、これがとんでもない傑作で、自身の2018年トップ映画になったし、今でも色んな意味で尾を引いている。原作小説『ぼぎわんが、来る』も読み終わり、改めて、中島哲也の〝悪意〟と形容せざるを得ない、あの映画のグロテスクさについて思い知らされた。

 

 グロい映画だった。ともかくグロテスクな映画だった。スプラッタ的な意味のそれではない。(いや、出血や身体切断等はめちゃくちゃあるので、物理的な意味での「グロい」も事実内含するんだけど)

 中島哲也の映画は、さしあたり『告白』と『渇き。』を観ているのだけど、『来る』を含め、これら作品群を作ったあの監督が「いや、俺人間好きっすよ、ラブアンドピース」とか言っていようものならこちらが人間不信に陥るか、彼を多重人格と思うかのどちらかだと思うくらいには、とにかく悪意と皮肉詰めで人間を描く監督だよなと思う。彼の内心、思想、信条、何も知らないけれど、僕にはそうとしか思えない、思うしかないという立場で話を進めていこうと思います。

 だって、『渇き。』公開初週に「高校生は1000円で観られるよ♪」なんてキャンペーンやるの、悪意以外にないでしょう。そのキャンペーンは監督のコントロール外のことかもしれないけれど、学生の口コミは集客に繋がるからって理由は十分真っ当だけど、でもやっぱりそこは、関連付けて考えちゃうよ。

 

 僕らが日々、隠して、取り繕っている諸々を、何食わぬ顔して生きようとするその二面性を、まさに多重人格じみた気質を、ナイフで抉り取って、インスタにアップするみたいにキラキラに加工してぶん投げてくるんですよ。恐ろしくてたまらないよ。ついでにこの監督の映画観て「面白かった(絵文字)」しか言わない人間も恐ろしくてたまらないよ。

 例えばセックス、例えば〝愛〟、例えば〝情〟、結局のところ肉欲に知性が乗っかっただけの僕らの、それ故の気持ち悪さを、両の眼めがけて撃ち込んでくる。たまらないよね、最高だと思う。好き。

 ふわふわした話になってしまったけれど、その〝悪意〟の詳細を、映像化に際した原作小説『ぼぎわんが、来る』からの変更点を挙げながら、具体的に語っていこうというのが今回の文章の目的。ちなみに完全にネタバレなので、まだ観ていないあなた、事前情報なしで観たいあなた、鑑賞後に読んでください。それからいっしょに、おはなししようね。

 ちなみに劇場版の脚本家、フリクリ劇場版の脚本もやってるらしいですね。

 

     ◇

 

 原作小説を読み終えて抱いた素直な感想は、「え、なんかいい話で終わってるじゃん。全然〝綺麗〟じゃん、これ」。一方劇場版では、あの終わり方は完全に、袋小路だと思ったんです。オムライスの唄が示唆する、物語的な「まだ終わっていない」は正直どうでもよくて、重要なのは野崎と真琴が〝情〟を優先し変えた結末と、その責任を負っていこうとする有様の方で、それをとりあえずはなんか良い感じの雰囲気で見せて終わるのは、本当に悪意に満ちているなぁと思ったんです。だって、あの二人の子育てにはいつか行き詰まりが来るでしょう。「この二人が真っ当に彼女を育てることは無理だよ」って、言外にそう言っていたように思えてならなかったよ。あんなの見させられて「よかったね、新しい両親がいて!」とはならないでしょう。頭お花畑すぎるって、それ。

 そのままの流れでいきなりラストシーンの話になるけれど、原作からの変更点その①は、香奈の死です。原作では、「ぼぎわん」に襲撃された香奈は、娘を攫われ、自身は(クトゥルフ的に)発狂するんだけど死んではおらず、お祓いシークエンスの後、時間が少し飛び、快復した香奈、野崎、真琴、そして知紗の四人のシーンで終わる。現世に戻ってきた知紗には、血の繋がった本当の母親がいて、彼女に育ててもらうことができる。それはこの物語における救いだ。しかし劇場版はそこを変えた。知紗を孤児とし、血の繋がらない男女に育てさせるという結末を取らせた。

 そして、その変更とリンクするかのように、②香奈のキャラクター造形の変更もなされた。めちゃくちゃ端的に言うと、原作での香奈はやさぐれない、不倫しない、完全なる被害者として描かれている。だから当然彼女が生き残るのも納得できる。映画でのような母親との話は前景化しないし、お守りを寸断する動機だって、完全に被害者のものとして描かれている。けれど、映画では、香奈の造形を変えてしまった。「虐待されて育った子は親になったらやっぱり自身の子を虐待します」みたいなそれはそれは分かりやすいカリカチュア、彼女もまた知紗を傷つけ、欲望に生き、破滅の道へ進んでいく。そしてその罪を受け入れろと言わんばかりに香奈はぶっ殺されるわけです。う~ん、グロイネ。

 それに関してさらに、③津田という男が香奈の不倫相手になるわけだが、原作ではこの立ち位置を唐草という男が担う。同じように大学教授で、民俗学に精通しており、田原家に呪いをかける。しかし決定的に違うのは、香奈が彼からの誘いを断ることと、呪いをかける唐草の動機だ。劇場版は、所有欲や嫉妬じみた感情で突き動かされている津田だが、原作の唐草は「女子供の話しかしない衆愚の一人くらい呪い殺してもいいだろう」という、どこか悪役然としすぎた、少々行儀の良い動機で行動している。生々しい性欲を動機にする方がチープなのかもしれないけれど、劇場版においては、通底する〝人間の二面性〟によって、それが効果的に描写されていると思うのだ。

 劇場版では、④小学生の田原秀樹が、失踪してしまう「ちさ」という少女に「お前もいつか連れていかれる、だって嘘吐きだから」と言われる場面が、フラッシュバックとして何度も挿入される。原作ではこの少女は登場せず、「ぼぎわん」を呼び寄せたのは秀樹の血縁の者であったということが明かされる。映画における上記のフラッシュバックは、原作での〝父権の呪い〟的テーマから、〝人間の二面性≒嘘を吐きながら生きているということ〟に主軸が動いていることの証拠であるように思う(「子供は素晴らしい、中絶はいけない≒生命は大切」と同時に、「無邪気に虫を殺すことができるのもまた人間の性質」と描いていることにも象徴される)。言葉にすると、とても陳腐に聞こえてしまうけれど。

 原作はわりと綺麗な、「家族を大切にしようね」のお話で、真琴が冒頭で言う台詞その通りなんだけど、劇場版では、必ずしも真琴のその台詞が全体のテーマとして扱われているわけではないように思えた。原作が書かれた理由が第一に「オカルトホラーを書きたい」だったのであれば、「ぼぎわん」の詳細な考察などにページが割かれるのは当然で、家族云々のテーマは、「姥捨て」「子捨て」といった歴史を取り入れたことから、ある種ドラマを進めるために逆説的に組み立てられた倫理であるのも妥当だと思う。原作では頭を食べるぼきわんが、映画では秀樹の下半身を食べていることにも、性欲を悪いものとして描いていることが伺えるかなぁと思う。

 というか、あの監督が「家族を大切にしましょう」とかわざわざ言うかね…?

 

 そして、最大の変更点だと思うのが、最終章において語り手≒そのまま主人公視点になる⑤野崎が、原作では無精子症であるが、劇場版においてはパートナーに中絶を選択させた過去を持つ男になっている点である。原作では、無精子症のため子供が作れず、離婚し、「子供」という存在そのものに憎悪を抱くようになった野崎が、ぼぎわんとの対峙を通し、いわば〝成長〟をする軸がある。一方映画では、「子供を望んでいない」という理由で中絶を選択させ、そしてその過去に苛まれている男になっている。贖罪をするかのように、或いは真琴に絆されるかのようにして、あの結末と向かう。それは、原作が示唆した「子供が作れない身体でも、親にはなれる」とは決定的に違う意味合いを持っている。

 端的に、原作での野崎と真琴の関係性は、ピュアなのだ。

 

 その他いくつか。「オムライス」を全編に渡ってモチーフとして取り入れた良改変。香奈がお守りを寸断するシークエンスでもオムライスを絡めていて、ラストシーンまで一貫して、一種の呪いの象徴のように描かれている。それから、秀樹が死んで以降もブログが更新されており、知紗が(偽りの)幸せな家族に入り込んでしまったという設定も、巧み/匠だなと思った。インターネット上に書かれ、構築された世界もまた、人の手を離れ一種の「この世ならざる空間」になる、というギミック。原作以上に、ブログというアイテムの存在を生かしている。lainみがあるね。(「成熟できずに死ぬ」ことのメタファーでもある)芋虫のモチーフも映像的にめちゃめちゃ気持ち悪くてgood。昔、小学校だか中学校での「薬物講座」の時に見させられた、金八先生のドラッグ回での幻覚描写を思い出した。「ドラッグって怖いんですよ」を意図してあれを見せるのは分かるんだけど、十代前半の少年少女には怖すぎるって。

 結婚式のシーンも、本当に悪意が厚盛(激寒)で、「恋愛とか気持ち悪いっしょ」って思っている監督なんじゃないのかとどうしても思ってしまう。秀樹の「子供欲しい!」も、原作は香奈に向けてしか言わないが、映画ではあの場にいる全員に宣言するかのように大声で叫ばれる。気持ち悪すぎて笑っちゃった。「所有欲、独占欲、醜いでしょ、そういうのと紙一重なんだよ、恋愛ってやつは」、そんな風に言ってるように思えるんです。なんでもかんでも結局てっぺんには恋愛が乗っかってばっかりな世の中、そういう空気に中指を突き立て――というよりも突き刺している感じ、普通のホラーエンタメだと思って観に来たカップルや夫婦を逆手の出刃で突き刺すあの感じ、まさにブギーマンですね、ハロウィンの。

 個人的には原作よりも映画の方が好きなのだけど、この改変を原作者はどう思っているんでしょう。ある種、原作レイプである気もするし。本当の意味でのレイプ。いや、本当に素晴らしい映画だと思うけど。原作と映画、ベクトルが違うんだよね。原作は創作の伝承をリアリティ込めて描いた怪異譚、映画はもっと人間そのものにフォーカスを当てている。原作は後味爽やか、希望もある物語。一方映画は、ねばつきが口に残ってしょうがないみたいな、後味の悪い高カロリー。それから、皆言うけど、お祓いフェスと柴田理恵はやっぱり素晴らしい改変で、団地のロケーション作りも凄いの一言。ただ、琴子、原作の方がかわいいなって思っちゃった。あれ読むと、松たか子じゃなかった可能性もあるよな、って。

  結論として。原作は割とシンプルな怪異譚、つまり人間はおおよそ被害者で、直接の被害者側にあまり罪はなく、最後には救いもある話。劇場版の方は、怪異譚を通して浮かび上がる人間の醜さ*1、う~んこういう言い方だと究極に陳腐だけれど、普段は澄ましたフリして見過ごしている嘘とか、欲望とか、そういうものを抉り出して突きつけている。それを見るために劇場に来たわけじゃない人たちにそれを突きつけている、ここにこそ〝悪意〟がある、みたいな感じ。雑か。人間って実はこんなに気味悪いものじゃんって、つまりサルトル謂うところの嘔吐、それをリッチなオカルト・ホラー・バトル・アクション・エンタメに乗っけて大衆に放ってしまうからタチが悪い(最高)。一度皮肉の臭いを感じてしまうと、綺麗な台詞も、オチも、茶化しや嘲笑に思えてしまう。そうならずにはいられない、すなわちそれが、監督が込めた悪意なんじゃないかと、僕は思うわけです。

 つらつらと書きました。取り留めない文章になってしまったようにも思う。こんな視点で観るようになったのも、僕が少しだけ大人になったからなのかなぁ、なんて。

 レビュー投稿サイトの「少子化を解消しないといけないのにこんな映画作ったらますます子供作らなくなると思う」って市井の感想で笑ってしまった。ほんとにね。

*1:この映画観て「本当に怖いのは人間。」とか言っちゃうあなた、その背中の傷どうしたんですか?

オモイデについてはまたいずれ

 あんなぁジロちゃん、友達でも恋人でもなんでもそうやけど、同じスピードで歩いていかんと人と人は続かんもんなのよ。

 

 ありふれた言葉だ。「DQNDQNと結婚する」と大差ない。でも僕は時折、『新興宗教オモイデ教』のこの台詞を思い出す。

 同じ歩幅でなんて歩けるわけがない。そんなのは滑稽で、欺瞞で、戯れ事で、綺麗事だ。

 それでも、ゆっくり歩いてみようとしたり、早足になって追いつこうとしてみたり、そんな風にしてしまうのが情ってものなのだろう。片方が立ち止まったら立ち止まれるような余裕を、立ち止まれる自由を、それを許せるような自由を。そして立ち止まったその場所から見る同じ風景をこそ、きっと大切にするべきなのだろう。

 人は分かり合えないが、分かり合えないことを前提として、関わっていくことはできるのだと思う。なんて、つまりこれは、ラブレターなのである。

2018

 が、終わるらしい。だらだらと生き延びてしまった。いつだって自己嫌悪。今年一年触れたコンテンツ含め、大仰にも総括なんてものをやっちゃおうかという次第。

 まず訃報。相棒の原付が死んだ。廃車。つらい。新しいパソコンを買いたかったのに。でも原ちゃんがいないと僕は何処へも行けないの。君が必要なんだよ。

 

 世の中にいる人の大半は「ネアカ」らしい。大凡が「まぁ人生どうにかなるっしょ」と思っているっぽい。それマジ? 「変ってるよね」とかいうしょーもない言葉を投げられることがあるが、いやいや、くるっているのはあんたなんだって。世界の終わりはNO WARに取って代わられ、ボクらのセカイは終わりましたとさ。結局のところセカイは物理に敵わないし、「ネクラ」な「内省」が革命に直結することはないんだよね。動かないといけないんですよ、物理で。大人になった訳じゃない、子供のままで、絶望しちゃっただけ。

 容姿や振る舞いで勝手にネアカと思われることが多いが、中身のない飲み会に付き合わされるなんてたまったもんじゃないですよ。好きな人とだけしか行きませんって。「休みの日何してるの?」「家にいますけど…」

 

 摂取したもの。キリがなくなるので今年発表されたものに限ります。

スター・ウォーズ/最後のジェダイ

 いきなり例外をブチ込んでいく。正確には2017の年末公開だったけれど、私の年度初映画はこれでした。レジスタンス周りは粗がありすぎると思うけれど、とはいえルーク・スカイウォーカーのドラマとしては一本完結したんじゃないかなぁとは思う。マーク・ハミル本人の言動含め、ルークの使い方にも賛否両論大概否、みたいな世論ではあるけれど、やっぱり二つの太陽リフレインされたら泣くでしょって感じ。

キングスマン ゴールデンサークル

 カントリーロード好き。確か今作の敵役、懐古主義の人だったよね。

【ネタバレあり】『キングスマン2 ゴールデンサークル』感想・解説:これどうやって続編に繋げるんだ? | ナガの映画の果てまで

 この記事にいたく感銘を受けた覚えがある。

ブラックパンサー

 BPとIWが今年かぁという感じ。随分と遠くに見たような感覚がある。すごく良い映画でした。

ボス・ベイビー

 子供向けチューニング

シェイプ・オブ・ウォーター

 めいさく。友人の間で一時期F××K YOUの手話が流行った。みんなも職場で使おう。

パシフィック・リム アップライジン

 デルトロじゃない。画面の色合いからも分かるように一作目とは方向性が真逆な作品。少年漫画感。

リズと青い鳥

 母校が出てるんや、そら見るしかないやろ、あたいら元女子高生としてもな。希美って悪い女だな~。

・レディ・プレイヤー1

 結局性欲?みたいなラストカットがどうにも腑に落ちなかった。青空の下で手を繋いで笑う、それじゃダメですかね。童貞っぽすぎ?

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー

 二回観に行ったんだけど二回とも暗い宇宙空間から昼間のワカンダに移り変わるところでゲロ吐きそうになった。急に明るくなるとゲロ吐きそうになるよね。今作に関してはエンドゲーム待ちでしょう。きっとすぐ公開だね。

リメンバー・ミー

 これ、よかったんですよね。「死」はいいぞ。

デッドプール

 語るべきものが意外とない。X-MEN ZERO出てくるところ好き。忽那汐里が可愛かったんだけど、やっぱりアメリカンが好きなアジア人の顔ってああいうタイプなんでしょうなぁ。ムーラン顔。

ランペイジ 巨獣大乱闘

 エンタメ~

ブリグズビー・ベア

 スター・ウォーズオマージュをマーク・ハミルそのもので下支えしちゃうの強すぎるよね。あの手の被害者のリアリティーには寄せない割り切り方だった。

カメラを止めるな!

 ラヂオの時間より視覚的にも脚本的にも洗練されていて面白かった。「ロメロだよ! そんぐらい見」てない層があれだけ楽しんでいるのだから、あんまりジャンルとか関係ないよね、って感じもする。ゾンビメタだって言われてたからどんな話が始まるんだと身構えていたら、コメディだった。

万引き家族

 ありきたりな感動映画ならラストで「お父さん」って呼ぶと思うんですよ、でもそうじゃない。だからこれは名作なんですね。松岡茉優良すぎか。

ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー

スターウォーズ疲れ」なんてよーわからん単語が跋扈しちゃったが、僕この映画大好きなんですよね。グミ・チョコレート・パインじゃないが、「女の方が先にオトナになる」なんて言葉、そこに潜む男の諦念、成長? そういう要素のある映画だったので良かったです。「I have a good feeling about this」、いいよね、ベタにね。

プーと大人になった僕

 顧客が本当に求めていたデジモンtri.です。無限大な夢のあとシンドローマーであるところのボク。プーのデザインが良すぎた。あのままのぬいぐるみが欲しいね。

アントマン&ワスプ

 巨大な敵役がいなくても二時間持つ脚本の完成度、MCUもすごいところまできたんだなぁという感慨。スーツ含めニチアサ感あったよね。

3D彼女 リアルガール

 DASAKU

・バッド・ジーニアス 危険な天才たち

 傑作。

・ヴェノム

 前記事通り。

・こんな夜更けにバナナかよ

 厳しい。これが年内見納めじゃなくてよかった。

・来る

 傑作。年末の怪物。今年一のエネルギー量を持った映画でした(二番目バッド・ジーニアス、三番目インフィニティ・ウォー)。絵作りもいいし、外連味に次ぐ外連味に興奮しっぱなし。冒頭いきなりの法事のシーンが良すぎる。ホラー・サスペンス映画、90~00年代の荒い画質か、コワすぎ!みたいなハンディカメラ画質での作品しか触れてこなかったため、しっかりとした機材(専門的なことよく分からないけど)を用いた、大画面での純粋な映像の質の良さに感動してしまった。所謂〝テーマ〟はどろっとした重みがあって、見ていて苦しいシーンもあるけれど、一種の現代日本カリカチュアとして、皮肉たっぷりに描かれている。大衆居酒屋のシーンは本当に不気味で、サルトルの嘔吐を地で行く描写に感嘆しまくりでした。結婚式のシーンも気持ち悪さ凝縮されてて楽しかった。あんなにも悪意のこもったバタフライは無いでしょう。そんでもって太賀すき。

 

ひそねとまそたん

 樋口真嗣が関わるとのことで見た。EDが映像含めとても良かった。ドラマもこじんまりと、綺麗に終わった。

宇宙よりも遠い場所

「私の世界を変える誰か」という関係性、素晴らしい。

・少女☆歌劇 レヴュースタァライト

 いまいちノれなかったな。インターネットで一部界隈がはちゃめちゃに褒めそやしているもの、温度差感じること多い。

・SSSS.GRIDMAN

 最終回まで微妙だと思っていたんだけど、最終回で1億点が出てしまったアニメ。モニター前で「これ左巻キ式ラストリゾートじゃん」とか言っちゃうやつ、やめた方がいいよ。そんなことしてるやつ誰だよ。俺か。

 グリッドマン然り、ここ数年、「異世界転生」含め、「(現実では)モブキャラの僕/私」というテーマが露骨に増えたのではないかと思う。人生やり直し系含めて。浅羽やシュウジにそんな自意識なかったよね? これ、ある種「俺ガイル」フォロワーのムーブだとも思うんだけど、かといってここのところ漫画、ラノベにそこまで意識を向けていないため、論の形にまで組み立てることが敵わない。90年代の「何処かへ」から、00年代越えて「何者かへ」へと変遷しているのが10年代なのかなとか、思ったり。

 

・孔雀 BURNOUT SYNDROMES

 名盤。同い年くらいでこれを作れてしまうことに悔しさを覚える。ちょっとしたイケメンアイドルバンド的な売り方もしているけれど、熊谷くんのストイックさは変わらないなぁという安心感。斜陽再録嬉しい。Dragonflyはガチ名曲。Melodic Sufersみたいなポップさがあと一曲は欲しいなと思う。ラップは相変わらずちょっとダサい…

・ホームタウン ASIAN KUNG-FU GENERATION

 アジカンは無条件で好きなので客観的な評価ができないんですけども、表題ホームタウン、レインボーフラッグ、荒野を歩け…と名曲揃い。ローが心地いい。アルバム単位だと前作Wonder Futureの方が肌に合っているんだけど、この落ち着いたロックもアジカンにしかできないんだろうなって、一生ついていきますって、そんな感じ。「はじまりの季節」の「光る街が見えとぅらぁ~」のところ、めちゃくちゃゴッチっぽいのにアジカン作曲じゃないってのが驚きだよね。

・HOUSE yonige

 リボルバーガチ名曲。

・Galaxy of the Tank-top ヤバイTシャツ屋さん

 この人たち頭良いというか、嗅覚が優れてるなぁって思います。パリピパリピ言いながら、ちゃんとそれらを客観視、相対化できていると思うんですよね。三枚目のアルバムも今年のリリースなんですけど、まだ聴けていません。

・これからの麺カタこってりの話をしよう マキシマム ザ ホルモン

 漫画は微妙だったんだけども、曲はやっぱりキャッチ―で良いですね。

 

今日から俺は

 世間的にも評判良いらしいですね。最初は「あぁまた懐古主義かぁ、しんどいなぁ」と思っていたんだけど、ちゃんと現代チューニングされた面白さがあった。子供にめちゃくちゃ人気らしいのも、「マイボス・マイヒーロー」と被るよね。あの当時は子供でした。長回しのアドリブのしょーもなさ、笑っちゃうんすよね。「中庭で神輿なんて聞いたことねぇぞ!」みたいなの、笑っちゃうんすよね。結構露骨な下ネタとか、バイオレンス描写があるんだけど、そういうのも逆に子供が好きなのかもしれませんね。続編、映画の話題が出回っていたけれど、このキャラクターたちの掛け合いがもっと見たいな、と思う。一昔前的な表現で言うところの、「萌え」があるんですよね、キャラ同士の関係性含め。「ツッパリ、ヤンキー」といった概念は最早ダサいの一言だけど、こういう半ばフィクショナルな「仁義」「人情」みたいなものが称揚されれば、そりゃ憧れる人もいるんだろうな、って感じもする。「男の闘い」、結局戦争終結後の云々が……いいやこの話、専門外だし。全共闘

 ファイトクラブを観返したい。

 

・MARVEL'S SPIDER-MAN

 前記事参照。今年のゲームではないけれど、Dead by Daylightとフォートナイトもめちゃくちゃやってました。フォートナイトはインフィニティ・ウォーとコラボしたりと、トップコンテンツとしての力強さを見せつけられた。

 

トランスフォーマー スタジオシリーズ SS-07 グリムロック

 トランスフォーマーの変形玩具どれかひとつオススメするならこれかマスターピースバンブルビー。映画ほぼそのままみたいな見た目だし、デカいし、カッコいいし、完成度が半端じゃないです。非正規アップグレードキット欲しい。

・ムービーモンスターシリーズ ビオランテ

 2018年ナンバーワンソフビでしょうこれ。クオリティ高すぎるよ。100体欲しいわ。ビオランテの新規ソフビが2018年に出るなんて思ってもいなかったよね。ありがとうシン・ゴジラ、ありがとう庵野秀明……

・S.H. MonsterArts ガメラ(1999)

 ぶっちゃけ微妙だよ。どうしてこうなっちゃったんだよ。ちなみにガメラ3邪神覚醒は傑作なので見とけ読み解けよ。

 

 というわけでなんとなく総括。最後の最後に摂取した「来る」のパワーが強すぎた。今年見た中では(どうしても上半期のものの印象が薄れてしまっているけれど)、「来る」と「バッド・ジーニアス」の二本がトップだったかなって感じ。冷静になったら「来る」はもう少し評価抑えめになるのかも。年納めがこれで本当に良かった。ブラックパンサーとかもめちゃくちゃ良かった。

 来年期待している映画としては、まず何よりもハリウッドゴジラ。背ビレついたnewゴジラが良すぎてモンアツが欲しい。月の光使ってる予告編、映画館で観たらヤバ過ぎてブチ上がってしまった。それからMIB4、大好きなシリーズなので期待大。単独ジョーカー映画も楽しみだし、MCU、DCFU、モータル・エンジン、バンブルビー、そしてスターウォーズと、待ってるものが多いです。

 シュガーラッシュとゾンビランドサガは年跨ぐとは思うけれど見ます。青ブタ、色づく世界、ダリフラ辺りも意識は向けていたけれど見ず終い。原作好きな封神演義はまぁいいかって感じ。

 サガと言えばこれだよね。

www.youtube.com

our time city

 怖くはないよ ぼくら1994だから

 

 ついに、こんな風に歌う、謳う、誰かが現れてしまったのかという感慨がある。

 

www.youtube.com

 

 明確にハヌマーンへのオマージュを感じる『リボルバー』を知ったことを決定的なきっかけとして聴き始めたyonigeandymoriのような曲があったり、当然アジカンを通っていたり、まさに1994、同じような国産音楽を享受して育ってきたであろう彼女らの歌は、当然心地良いものがある。「赤裸々な女性の本音」とか、そんなものに興味はないんだけれど。

 たまにびしっと、とても美しく素晴らしい詞がある。

 1984が「CITY LIGHTS」「何処にもいけない」と歌うのなら、〝ぼくら〟は「our time city」「何にもなれない」と歌うのだろう。だってもう平成は終わるし、昭和なんて生まれる前に終わっていたし、世界は滅びずに1は2に切り替わったし、退屈で平凡な日々はゆるりと続いていくのだから。

 

 僕は未だに、モラトリアムの中にいて、中途半端に生きている。生温さは心地良い。同時にとても不愉快で、今すぐにでも逃げ出したくなる。それはきっと、生まれ育った土地とも似ていて。嘔吐感、サルトル。あなたたちは、吐きたくなったりしないんですか?

 

 アワータイムシティ ぼくらは何にもなれない

 

 友人は僕に言ってくれる。何者かになった年下のことなんていちいち気にすることはないって、何者にもなれない奴の方が圧倒的に多いんだって。

 至極御尤もだ。

 けれど、それでも、と思ってしまう。

 英語弁論大会の受賞レセプションで「I have a dream」と語り出した中学生の少女や、間近で見たグループのキャプテンを務める年下のアイドルの立ち振る舞いや――嗚呼、それらを見て何かもの想うことは、果たして無益だろうか?

 1994だ。齢24だ。そりゃあ焦るでしょう。17の時からずっと焦っている。生き急いで、搾り取って、縺れる足。今月頭から、芝居関係を目指す友人が、付き人としての生活を始めた。出版社に持ち込みをして、評価を受けた。そのバイタリティに、焦がれる。足は縺れたまま、想像だけ、ずっとそう、遠くへ。

 メッセージアプリの大学同期グループがけたたましく鳴動し、大学周辺で就職した者たちが集まって食事をしている様が、送られてきた。彼らとは遠い。遠くありたいと思う。

 

 世界はいつだって、〝ぼくら〟を平凡に取り込もうとする。進学、就職、結婚。恋愛、家庭、労働、昇進。

 微塵も興味がない。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない、自殺ということだ」アルベール・カミュは言う。至極御尤もだ。それしかない。大事なことは死だけだ。

 悲哀や寂寥や郷愁はいつだって後ろ向きに僕を引っ張る。情がないわけじゃないけれど、それを優先していたらきっと、「僕は何処にも行けないの」。

 言葉だけでは遠く。

或る青年の話。

 全てから逃げ出したくなる時がある。

 何もかもから関係を絶って、己だけの世界へ潜り込んでいきたい時がある。

 愛や、憎や、喜や怒や哀や楽から、憧憬からも、後悔からも、希望からも、理想からも、遠ざかってしまいたいと思う時がある。

 世界の果てで、果ててしまいたいと思う時がある。

 ここから一歩も通さない。理屈も法律も通さない。誰の声も届かない。友達も恋人も入れない。


 だから僕は、関東平野の最東端にある小さな岬へ、ひたすらに車を走らせた。

 片道で四時間近く。なんなら車で実家に帰ることもできるような長さ。

 でも僕は育った街とは反対の方角へ、向かう。好きな音楽をかけて。返信はしない。

 正午に出発し、到着した頃には日暮れの真っ只中。

 天気は生憎の曇り、けれどそれ故に、そこは静かで、遥かな果てとして映る。濃い、深い青色の中で、ぽつりぽつりと浮かぶ浜辺沿いの灯り、灯台の光。

 

 ここで死んでもいいなと、思えた。

 ここで、僕の物語が終わったら、結構良い感じかもなって、思えた。

 幕引き、果ての渚、世界の終わり。

 

 天国じゃあ、みんなが海の話をするんだぜって、きっと僕は、天国に逝けやしないだろうけど。

 

 彼と会えなくなってから、気づいたら一年が経っていた。

 この世界からいなくなってしまったことが、未だに信じられない。

 

「俺、Over SoulよりNorthern Lightsの方が好きなんすよね」なんて、だけど今は、「蘇れ」って、口ずさみたくもなるよ。

 だって、そうでしょう?

 

 くたばりたくなって、ぼけっと海を眺めて、一時間もしたら、家に向かって走り出して、「今日は映画みたいだったなぁ」なんて、明日の労働のことを考えながら、僕を想う人たちのことを想いながら、夢、理想、願いの為に努力する友人や、もう会わない誰かや、もう会えないあなたのことを想いながら、いい加減サイドミラーに曇り止め塗らないと雨の日困るよなぁとか、そうして緩やかに緩やかに、日常に戻って。

 

 17の死と、29の死と、24の生と、

 許せないことを笑いながら、

 許せないことに嗤われながら、

 どうしようもなく、生きていくんだろう。

 

 映画みたいな非日常に入水しにいくことがあっても、いいでしょう。

 溺死。

 太宰が妻と死ななかった理由を、僕は少しだけ、解るような気がする。

 こんなことを言ったら、きっと陶酔だって嘲笑われるだろうけど。

 だって、夫婦生活は日常で、生だから。

 其処に死は似つかわしくなくて、其処から逃げ出したいと思ってしまったから。

 違うかなぁ? まぁ、違うんだろうけど。

 

 帰ってきて、『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』を見返したくなって、配信サイトにはどこにもなくて、それじゃあ『天国の口、終わりの楽園。』を探したけれどそれもなくって、近所のTSUTAYAは全滅、それじゃあそれじゃあと『ベイビー・ドライバー』を観たら、どうしようもなく傑作だったよ。どう転がるか分からない展開、退屈な瞬間は一瞬もない。カーチェイス、ボーイ・ミーツ・ガール、エスケイプ、フロム、シガラミ。僕と、あなたで、どこまでも、車を走らせて、そうしたら、きっと何かが変わるかもしれないって。

 きっとあなたが生きていたら、こんな話だってしていたんだろうな。だってあなたは些細なことでも必ず拾ってくれたから。拾ってほしいことばかりだったよ、あなたがいなくなってからの日々では、本当にいろんなことがありました。新しいものがどんどん生み出されていきました。憧れるものが増えていきました。憎らしいものが大手を振るっていました。あなたと共有したいもの、楽しみたいもの、馬鹿にしたいもの、笑いたいもの。

 

「僕が今のあなたの歳になった時、この人生がどうだったかって話をしますから、とりあえずどうかそれまで、お互い生きましょうね」なんて、言った。5年も6年も年下の僕が生意気にも、そんなくだらない約束をして、だって、生きていてほしかったから。生きづらいと嘆くあなたがそれでも生きていることは、僕にとっての希望だったから。

 その約束はもう叶うことはないけれど。

 とりあえずまだ生きます。だって、ノッキンオンヘブンズドア、もう一回観たいし。

ヴェノムの話

 遅ればせながら『ヴェノム』観ました。「MCU以前~初期のようなアメコミ映画」とはよく言ったもので、そんな実感がありました。一番の感想として、「スパイダーマン絡まないとまんま寄生獣だな」というもの。惜しいなと感じる部分もぽつぽつあり、「こうすればよかったんじゃないか」なんて感想を、素人ながら忘れないうちに書いていこうと思う。当然仕事でやっているプロが考えなかったことなんてないだろうし、諸々の制約、取捨選択の結果なんだろうとは思うけどね。「ぼくがかんがえたさいきょうの」という言葉はとても便利ですね。バレ有りです。

 

     ◇

 

 大まかな基本設定として、ヴェノムは一度ピーター・パーカー/スパイダーマンに寄生したシンビオートであり、エディはスパイダーマンに因縁がある。単独作ということは、エディ・ブロックとヴェノムが共にピーター・パーカー/スパイダーマンに志向性を持つというアイデンティティが喪失するということである。ではその個性はどう変形して今作に盛り込まれただろうか。これが結構微妙なアレンジだったなと思う点である。

 エディは、ピーターに当たる対象(≒復讐)を、勤めていた会社の社長か、ライフ社のドレイクに求めることができ、実際、ドレイクと対決することになった。でもこれがドラマの一本の筋になっているわけでは決してない。

 そしてヴェノムには特定の対象がいない。映画内設定では、ヴェノムと共にやってきたシンビオートのうちの一体、ライオットが故郷の星での因縁があるという設定だったようだけれど、特別前景化しなかった。確かに故郷でのシンビオートの物語を(視覚的にも)描いてしまうのはテンポを落とすし、野暮だろう。しかしもう少し、ヴェノム自身の復讐を盛り込んだらよかったのではないかと思う。エディと利害が一致するのはドレイクとライオットが一体化することによってだが、この情報も、手際よい開示が可能だったはずだ。宇宙船が中国に落下したのはテンセント出資関係だと思うし、それなければもう少しすんなりドラマが進んだだろう。

 それこそ、故郷でうだつが上がらないヴェノムが、一発逆転の復讐を狙って自発的に宇宙船に忍び込んだことすればよかったのではないか。炎に弱いシンビオートを、大気圏で燃やし尽くし、自分は地球に着陸しようと意図する、など、やり方はあったと思う。宇宙船を壊す役回りだったのがライオット自身だったのが、意図不明だ。「負け犬」を先遣隊としてあえて引き連れ、最後には融合を誘ってくるのもいまいち一貫性がない。

 故郷においての何かしらの離反、敗北などを背景とし、(強引なこじつけではあるけれど)「(我々の種としての)毒」=地球の言葉でいうところの「venom」である、なんて意味合いを持たせれば、ネーミングにも意味が生まれただろう。或いはまさに〝負け犬〟という言葉を用い、ライオットからは「〝負け犬〟ヴェノム」なんて呼ばれているような関係性だったら、ドレイク/ライオットに対する利害関係、協力体制に説得力が見出せたのではないか。

 ヴェノムが何故エディの身体でなければいけないのか、という説明も作中では「気に入った」以外にないが、「負け犬のリベンジ」の軸をもっとはっきりさせれば納得もいっただろう。そのためにエディがもっとアウトローというか、すぐ手が出てしまう、怒りっぽい、みたいな性格になっていて然るべきだったと思うし、どうせダークヒーローで脳みそ食べることも条件付きであれ許容するくらいなのだから、もっと悪い男にしてしまってよかったと思われる(悪いからこそ全てを失う、でもよかっただろう)。変にMCUに目配せをして半端にしてしまった感が否めない。ぶっちゃけあんまり『最悪』ではなかった。

 寄生獣のように、生命を共有してしまう、という唯一無二性を、どうにか持たせることができたらよかったのではないかと思う。自由に寄生対象を選べる設定なのに、あえて特定の人物に固執する理由が曖昧で、乗り手の身体的な優劣が語られるわけでもない。例えばエディはかつてボクシングをしていた(原作だとその手の設定があるが映画では説明なし)とか、なんとなくでもそういう「寄生に好ましい理由」があればよかったのかなと思ったりする。そういうシンビオート側の選択の理由を描けば、例えばドレイクの場合「知力、権力、思想」などに相当するだろうし、より人間/シンビオートのコンビでの個性が明白になったと思う。

 しかし、ドレイクはほとんど寄生獣のキャラクターみたいだった。寄生獣を読み返したくなったよ。

 

 

 このツイートはすごく同意できるし、宇多丸「ムービーウォッチメン」終盤でのアイディアにも賛同するところが大きい。こんな感じの展開が盛り込まれていたらもう少しアツかったと思う。

 総評的には面白かったし、やっぱりあの黒々とした巨駆が暴れ回る様はそれだけで楽しい。スパイダーマン3のリベンジにもなったのかな、ソニースパイダーマン3のヴェノムはプリケツなのが笑っちゃうよね。

 そしてラストで示唆された次なる展開。あのキャラクター、あの俳優にするの感は否めない。若手イケメン俳優とかにしないの? みんなオッサンになっちゃうじゃん。あのシーケンス、羊たちの沈黙のオマージュですかね。

最近見た映画

 最近見た映画の感想。

 

市民ケーン

 凄さ、やっぱりこの時代に生きる僕にはいまいち分からなかった。「分からなかった」で済ませるつもりはないけど。

・チャイナタウン

 脚本指南書なんかでめちゃくちゃ褒められている作品。面白かったけど、実のところ僕個人としては多分ジャック・ニコルソン見てるのが楽しいだけなのかもしれない。

・ミスターインクレディブル

 最近続編やったスーパーヒーローものということで今更視聴。意外としょっぱい脚本。メインのお話がジャングルで展開するんだもの……。

ファンボーイズ

「RP1」のアーネスト・クライン脚本。最後は泣けた。好きなものの話ができる友達がいるって、本当に素晴らしいことだと思う。ある種の愚直さ、やっぱり物語が描いてこそのものだよなぁ。物語上ではep1を見て死んだ青年、実際どう思ったんですかね。あれだけ見て死ねないだろ。現実において、余命幾何のファンがep7を先行視聴して死ぬというニュースがあったが、まぁ7なら満足して死ねるかなと個人的には思う。

・ブレックファスト・クラブ

 舞台も学校だけ。基本会話劇で淡々としているんだけど、独特のエモさがある。皆で踊るシーンが好き。芝居映えしそうだなと思う。これをオマージュして何か書けそう。アリソン(アリー・シーディー)が可愛い。横顔がめちゃくちゃ綺麗。イメチェン前の方が素敵よ。「のろま」「不思議ちゃん」という語られ方をしているけれど、今でいう自閉症でしょうね……。

・スーパー!

 ジェームズ・ガンのスーパーヒーロもの。キック・アス的な、といえばある程度は伝わるけれど、信仰、正義、暴力、みたいな結構重めのテーマの上での話なので、凄惨です。リビー(エレン・ペイジ)のサイコ・ガール感が面白過ぎた。あのキャラクターがいなかったらつまらない映画だったかもしれない。

カッコーの巣の上で(再)

 再視聴。はい面白い。やっぱジャック・ニコルソンって神だわ。なんでしょうね、この作品の、画面にかぶりついていたくなる魅力。電流喰らった後のマクマーフィーの物真似が上手い友達がいます。

ショーシャンクの空に(再)

 はい面白い。果たして希望は、立ちはだかる壁を穿つのだろうか。頭の中だけはいつだって自由だとアンディ・デュフレーンは言うけれど、身体の制約はやっぱり免れないと思うよ、そんな簡単な話じゃない。そしてこの物語は、主人公の頭が良いから進むドラマだ。凡人はそんなに簡単に絶望を穿てやしないよ。なんて、それでもいつだって希望は美しい。

・バッド・ジーニアス 危険な天才たち(劇場)

 タイ映画。本国での2017年の興行収入一位だとかなんだとか(こういう情報、期間なんかの定義づけが曖昧なんだよないつも)。めちゃくちゃ面白かった。主題はカンニングだけど、背景に学歴社会や貧富の差があり、貧しく、不幸な天才たちが金持ちの馬鹿に乗せられてカンニングをすることになる。でもそれで幸せになることはできない、のし上がることはできない。アジア圏のティーンの様相やお国柄が見えるのも楽しい(この辺『あの頃、君を追いかけた』と通ずる.com)。

 特にバンクくんという片親で実家がボロボロのクリーニング屋を営む天才少年がヤバイ。悲哀を背負いすぎている。闇墜ちしないで。幸せになってほしい、マジで。

 とにかく見てほしい。もの凄いパワーのある映画でした。ハッピーエンド、バッドエンド、そういうの抜きにして、もの凄い映画を観た後は頑張らなきゃなって思わされるよね。

 

 来週はヴェノム観ます。寄生獣期待すると痛い目見ます?