sayonarayouth

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最近摂取したコンテンツ

「既存の枠組みから外れる」という既存の枠組み。

 脚本の仕事で自力で1円でも稼いだら、「脚本家」って名乗れるのか?

 芝居の仕事で自力で1円でも稼いだら、「俳優」って名乗れるのか?

 

 SPOONの広告に苛立つのはきっと、素人のプロぶった振る舞いを嫌悪しているからだと思う。

 

     ◇

 

 というわけで、溜まりに溜まった感想。

 

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

 ゴジラ×wave of mutilation、完全に〝俺得〟でしかない。ミリー・ボビー・ブラウン、グイグイ来てますね。ストレンジャーシングスの話は後程。 ハリウッド版ゴジラの咆哮のタメがすごく好き。サノス的思考ってアメリカで流行りなの?

 オキシジェン・デストロイヤー、日本人は絶対あの使い方できないよね。面白いよなぁ~。65周年グッズのオキシジェン・デストロイヤーキーチェーンが出色の出来。

 とにかく怪獣プロレスに振ってて潔かったな。キングコングにも期待です。

 

スパイダーマン ファー・フロム・ホーム

 傑作だと思います。フェイズの締めと橋渡し、IW~EGで描かれなかった市井の実情、ミステリオというキャラクターの極めて現代的&EG以後の世界的キャラクター配置、PS4スパイダーマンからのフィードバック&オマージュ、〝MCU〟ヒーローとしてのピーターのドラマ、マジで喝采でした。

 長らくMCU個人ベストは「キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー」だったけれど、この度FFHが見事その座を勝ち取りました。文脈が多すぎる故に人に勧めにくくはあるけど……。(その点においてFAは入門にもいい)

 EGを踏まえないといけない即ち、MCUをある程度網羅的に知っておかなければならない作品ではあるけれどしかし、単体で見てもテンポの良さやアクションの楽しさ、含まれたある種のメタ性、現代性、批評性、どれを取ってもビッグバジェットにおける最高峰なんじゃないかなぁと思います。スパイダーマンについては常に権利問題で悶着あるけれど、再交渉に入ったとの話もあるし、是非〝この〟スパイダーマンの続きが観たい、と切に思う。

 世界中の皆が大好きなキャラクターだけあって、次から次へと過酷な試練が与えられるピーター・パーカーくん、これからも頑張ってくれ。

 

・MIBインターナショナル

 正式タイトル書くのも面倒なくらいだ。

『メン・イン・ブラック:インターナショナル』監督とプロデューサーの対立劇あった ─ 書き直されるシナリオ、増え続ける脚本家たち | THE RIVER

「現在の移民問題にも繋がるタイムリーな内容で、ザ・ビートルズ風のバンドが4人1組のヴィランとして登場していた」初期脚本バージョンのMIBが見たかったよ。

 1、2は傑作なのになぁ。

 

・神と共に

 一章の方が好みでした。家族モノの一章、大河&転生モノの二章と明確にジャンルやテーマを変えていたので、どちらが好みかは人に依ると思う。韓国の家族観や大作映画の感じを知れて、そういう意味でも楽しい作品でした。ちなみに一章はドバ泣きしました。

 

・天気の子

 あの大ヒット一大青春エンターテイメントの後にこれをお出しするの、あまりにも変態的だなぁと思う。僕は「変態」という言葉で何かを評価することが嫌いなんだけど、これに関しては本当に、そう表現するのが最も実感に近い。

「水没する東京、といえば~?」「メガギラス~!」ということで、僕の人生に多大なる影響を与えた「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」を彷彿とさせる展開に面白味を見出したのであった。

 

・怪怪怪怪物!

「あの頃、君を追いかけた」の監督最新作(とはいえ本国での公開は2017年)。校舎でのラストシークエンスは堪らなく、最終的には面白かったが、どうにも前半のテンポが悪い。90分だったら傑作だったかもしれないなぁ。ラストは必見。

 

・あの頃、君を追いかけた(2018)

 原典に勝てる要素が何もない……。

 

・心霊×カルト×アウトロー

 アマゾンプライムで見れるモキュメンタリー。デカいアクションシーンがないこともあってか、空気感が良くて、「ああ、これ実話じゃないのか」と思わせる奇妙な現実との地続き感を感じさせた。

 

 ・オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ

 森達也の名著。本当に面白かった。後半にはラプラスの悪魔みたいな話まで出てきて、かなり科学的、理論的な距離を置いた視点の持ち主であることが分かる。そういう人が「それでもやっぱり不可解な、超常としか思えない出来事がある」と言うんだから、ゾクゾクしちゃうよね。俺も出会いてぇよ。イタコの話、寿司屋の自動扉の話、土佐神社の「つる」の話、どれもたまらねぇぜ。

 

・アクタージュ

 もうマジで面白い。読みながらボロボロ涙が出てくる漫画は「ソウルキャッチャーズ」以来です。デスゲームものを持ってきたりと、上手く現代の読み手の興味を惹き付けつつ、雑に用いられがちな「銀河鉄道の夜」にもしっかり意味を含ませ話を進めるという素晴らしい脚本。6巻なんか基本泣きながら読んでました。銀鉄編区切った後、映研編を挟む塩梅もすごく良い。そこに出る朝陽ひなと花井の感じも、テンプレ的ではあるが(どこか岡田磨里っぽくもある)、絶妙なバランスで作劇されていて、そこ単体でも青春群像ものとして出来がいいんですよね。「頑張って可愛くなろうとしている」顔として意図的に描かれているひな、この辺り女性作画ならではなのかもしれないなとか思ったり。マツキタツヤは映画業界にいた人なのかな?

「呪術廻戦」「Dr.STONE」「約束のネバーランド」「鬼滅の刃」「僕のヒーローアカデミア」と、今のジャンプはめちゃくちゃ面白いですね。最近は群像劇が流行っているような印象を受ける。漫画の作劇のレベルも、業界全体めちゃくちゃ上がってるんじゃないですかね。

 

ファイアパンチ

 最終的には古典SFのいわゆる〝センスオブワンダー〟みたいなオチになるとは予想できなかった。スター・ウォーズががっつり出てくるところが楽しかった。あの世界観で、限りなく現代の我々に近いトガタが出てくるバランスっていうのが面白かったなぁと思う。「チェーンソーマン」はどう転がっていくのでしょうね。

 

 ・夏へのトンネル、さよならの出口

 表紙の一枚絵で作品全体の世界観を強く打ち出す系ライトノベル/文芸、惹かれるジャンルでよく手に取るんだけど、その割にどうにも自分の好みドストライクに出会えない。なんだろうね。賞レース作品は佳作あたりの方が書き手の歪さが出てて好きだなぁと思う。「スカートのなかのひみつ。」とか。

 

・MEMORIES(ネクライトーキー)

「ONE」も名盤だが、最新作「MEMORIES」は作詞曲&リードギターの朝日廉が石風呂名義で発表していたボカロ曲がほとんどで、それはつまり(人間の)新たなボーカルを迎え制作したセルフリメイクであるとも言える。石風呂は「ゆるふわ樹海ガール」で完成してしまっていた、と僕はどうしても思ってしまう。他にもめちゃくちゃいい曲はたくさんあるけど、あの時点で実は完成していて、残りの曲は本質的には「ゆるふわ」と「ティーンエイジ・ネクラポップ」の変奏でしかないんじゃないかなぁとか思えたりもしてしまう。

 盟友カナブーンは武道館(現代はもうこの指標はあまり意味を為さないのか?)まで行ったのに、かたや前身バンドは芽が出ずドラム脱退ののち活動休止。起死回生のネクライトーキーはついにMV100万再生突破、切り札としてボカロ曲を持ってきて、退路無しの本気具合を見せつけられている。マジで好きなので頑張ってほしい。コンポラはやっぱり、ビジュアル含め大衆売れ線にはどうしてもなりきれなかったと思う。今はもっさやむーさんという華もできたし、キタケンみたいなドラマーも良いアクセントになっている。朝日廉も不潔感あるロン毛を切り、小綺麗になった。圧倒的に〝今が最高〟と思う。万人に受ける思想ではやっぱりないかもしれない。でもやっぱり僕は大好きだ。教室の片隅でイヤホンで耳を塞いでいる/いた人間にとって、なくてはならないバンドだと僕は思う。


・S.H.モンスターアーツ ガメラ(1995)

 1作目が一番最後で一番出来いいってどういうこっちゃねん。1999のやつ頼むから至急なんとかしてくれや。

 

・ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 タランティーノがあのシャロン・テート事件を扱うということで公式サイトができるずっと前から注目していた映画。てっきり史実としてのシャロン・テート事件を受けての架空のキャラクターたちの行動が描かれると思っていたが、まさか〝イングロリアス〟式とは……。でも、シャロン・テートをああいう扱い方をすることはやっぱり、タランティーノの映画そのものへの救いや愛の表現なんだろうなぁと。「天気の子」もそうだけれど、純粋な面白さとしては前作(君の名は。)(イングロリアス・バスターズ)の方が勝るが、観終わってじっくり想いを馳せると、愛しさという点で勝るのは最新作だなぁと思いました。 

 

ストレンジャー・シングス 未知の世界

 夢中になって観ました。本当に面白かった。これが所謂80年代感、なのか分からないが、「イリヤの空、UFOの夏」ってかなりこの空気感と通底するものがあると思うし、00年代に発表された作品の書き手たちは、この想像力でものを作っていたんじゃないかと思うと、セカイ系なるものも特別なものじゃないんだろうと改めて思わされる。

 本当に怪物コンテンツだと思う。キャラクターコンテンツとしても一級品だと思うし。スティーブとダスティンのコンビ最高すぎるでしょう。マヤ・ホークも可愛いし、いつも発情してる(酷い言い方!)ナンシーも細身なのに超色っぽい。ホーキンス警察のマグカップ買っちゃったし、デモゴルゴンのフィギュアも欲しいよ。シーズン2が特に良かった。シーズン4もう待ち切れないよ、早く出してくれ。Dead by Daylightコラボも、たまらねぇぜ。

 

・THE BOYS

ウォッチメン」的な感じなんだけど、ヒーローたちはゲスでクズでというのが強調された設定になっている。全体的なキャラ造形はDCのパロディっぽい。MCUがひとつの大きな区切りを迎えたタイミングと被ってるから「MCUへの皮肉/批評」みたいな文脈を過度に付けられている印象もあるんだけど、原作連載の時期は少し前だし、基本的には現行映画への目配せはパロディ程度だったなと個人的には思っている。とにかく面白い映画でした。オチがNTRって! ホームランダーさん怖いよ~。シーズン2もう待ち切れないよ、早く出してくれ。

 

 ストレンジャーシングスもザボーイズも、ちゃんとシーズン毎のオチは付けてるし、やっぱりアンブレラアカデミーの終わらせ方(終わってない)は普通に良くないものなんだろうな。 

 

響-HIBIKI-

 めちゃくちゃ良い。個人的には欠点がまるでなく、既に三回観返してしまった(映像レンタル→返却し原作マンガを借りる→再び映像レンタル)。

 まず、平手友梨奈という主演のアイドル映画にちゃんとなっていること。欅坂文脈を正直僕は全く分からないのだが、おそらくその活動における彼女の立ち回りや人となりがある程度はオーバーラップさせられるような構成になっているのだろうなと思う。主題歌まで一貫してる。

 とにかく画面にいる彼女を目で追ってるだけで楽しいんですよね。あの顔にあの髪型と眼鏡なのがなんか個人的にすごく良いんですよ。むすっとした表情の合間に見せる無垢な笑顔が、たまらねぇぜ。

 それから、脚本が本当に良くて。「小説家になる方法」という原題のサブタイトルを外していることが象徴的かと思うんだけど、原作とは空気感からかなり異なっている印象。

 個人的には、原作漫画のキャラクターはほぼ全員好感が持てなくて、話運びもどこか気持ち良くない湿った感じがある。その点、映画は全く真逆で、主人公響のいけ好かない感じも平手が本当に素晴らしい具合に中和しているし(海で砂に埋まっているシーンなんかマジで良い)、展開も芥川・直木編で終わるから、原作ではどんどんその傾向が強くなる所謂「俺TUEE」になり切らないし、破天荒な若者が自身の価値観を貫き社会の慣習や惰性を穿つみたいな、ともすればウザいだけの「スカッと」具合もちょうどいい。最終カットもパトカーで連行されている主人公だし。

 原作では最初からいて芥川・直木編の後でデカい問題を起こす花代子というキャラが1秒も出てこないのも、マジのマジで英断だと思う。あいつは原作でもかなりの割合でストレッサーシングス。尺的には削って当然だけど、涼太郎の設定も脇に追いやったの英断。

 原作では合間合間に主人公に影響を受けることになる作家の群像模様が描かれるが、その辺りの展開も柳楽と小栗の二人に絞っていて良かった。柳楽のシーン全般は原作と違う表現の仕方をしているけれど、映画の方がタイトで、絵面的にも圧倒的に良い。本当に良い。週刊実報の矢野にいくつかのキャラや展開が詰め込まれていて、この辺りもかなりタイトで良い。あいつが本当にウザい感じ出てて良いんすよね。カメラ壊されるところとかスカッとJAPANですよ!スカッとヤーパン

 これは原作にもあるが、好きなセリフはアヤカ・ウィルソンの「芥川賞直木賞に同時にノミネートされた人」。震え声が面白い。アヤカ・ウィルソンの表情の作り方がめちゃくちゃ良いんすよ。

 ミニマルなSEも良い。あの原作からこの映画が作られたことは、漫画原作実写映画における希望だと思う。 

キミスイ」では内容が内容なだけに見誤っていたけれど、月川監督は(古き良き、という言い方が正しいかどうか分からないけど)アイドル映画の人なんだろうなと思った。キミスイ浜辺美波ちゃんがすごく可愛かったし。

「食べる」という営みについて

 人が食事をしている様に、泣きたくなるような、目を逸らしたくなるような、でも目を逸らせない/逸らしてはいけないような、そんな気持ちになる時がある。

 人の食事風景に、「みすぼらしい」と思ってしまう瞬間がある。しかしそれが、そのみすぼらしさこそが、僕にとって食事というものの本質であり、剥き出しの生=命であるように思えてならない。この「みすぼらしさ」は僕の中では「醜さ」とは違っていて、どちらかといえば愛しいものの部類でもあるように感じている。

 

 布を纏い、言葉を話し、文化や文明でどれだけその輪郭を形作ろうとも、ふとした瞬間にその綻びが顔を覗かせる。食事、睡眠、そしてセックスやオナニーの瞬間だ。

 三大欲求は、極めて動物的なものだろう。

 口腔を開き、食べ物を押し込むその様。不器用に箸を使ったり、思わず前傾姿勢になったり、食物の破片を溢して慌てたり――誰かと席を共にしていれば紛れるかもしれないが、遍く全ての人が漏れなく、たった一人、音のない空間でその姿を録画されていたとしよう。その姿は間違いなくみすぼらしく、哀愁を誘うはずだ。そんな記録映像を見せられ続けたら、僕は発狂してしまう自信がある。

 睡眠はどうだろう。起きている間どんなにめかし込んで、表情を、振る舞いを作っていたとしても、眠る瞬間にそれは弛緩する。口を開けて眠ることもあるだろう、いびきをかくこともあるだろう、歯軋りをすることもあるだろう。それは間抜けに映ることだと思う。(そりゃもちろん、寝顔すら美しく整ってる人だっているとは思うけど)

 セックスはどうだ。愛や快楽を求め一対一の世界に没頭している当事者にとっては思い至りもしないだろうが、傍から見れば裸の男が腰を振っているのだ。女は犬や仰向けの蛙のような格好で喘ぐのだ。なんと滑稽なことだろう。男にとってルーチンである自慰行為を取ってみても、たった数秒前まで気持ちを昂らせ見ていたはずの、画面の先の行為が、満たされてしまえば酷く滑稽で笑える光景に映るだろう。映らない? 僕は映ります。アダルトビデオをネタにするという行為がしばしインターネットでは流行るが、その本質は、セックスというものそのものが持っている滑稽さ故だと、僕は思っている。

 

 

 引用ツイートの参照先が有料記事なため、片手落ちな引用かもしれないが、別に記事の批判をしたいとかそういう意図はないため許してほしい。(林真理子氏の『葡萄が目にしみる』、すごく好きです)

「ひとがものを食う姿の哀しみを知ってくれよ」という言葉に、僕は泣きそうになる。

 

 いきなり!ステーキに老婆がやってきて、「ワイルドステーキ」を訳も分からず注文していた。きっと久しぶりにステーキでも食べたくなって、ふらっと寄ってみたりしたのだろう。

 僕の個人的な感想なので批判の意図は全く無いのだけれど、一番安い「ワイルドステーキ」は硬い。とにかく硬くて、僕は噛み切ることが出来ず、食事を楽しむことが出来なかった経験がある。(重ね重ね言うけれど、僕個人の感想です。トップリブとかは旨いです)

 その老婆が、何も知らないままそれを食べ始める姿を見て、胸がはち切れそうになった。つらかった。苦しかった。オチはない。勢いだけで回想しているんだけど、似たような経験は、これまでたくさんある。今日だって目の前で老夫婦が大したことない原価の〝一流メニュー〟をぼそぼそ食らっている様に心が圧し潰されそうになった。心が叫びたがっていた。思い返してこれを記している今も重力が1.25倍くらいになった気分でぐったりしている。

 所謂「家族ユーチューバー」みたいな人たちが食べ放題に行っている動画なんかも見るのがつらい。でも何故か見てしまう。人が食事をしている様はやっぱりみすぼらしくて、どうしようもなく魅力的だ。

 

 向井秀徳が『自問自答』で「若い父親と小さい娘がなんか美味そうなもんにかじりついていた」と歌っている。その切り取り方にやっぱり物凄い才能を感じる。このワンフレーズが僕には刺さる。幸せそうに食事をしている子供とその両親や、一人で牛丼を食っているオッサンや、目の前の好きな人たちと談笑をする他ならぬこの自分自身が、とてもとても、憐れに思えて仕方がない。そんな瞬間のことを、そんな瞬間を取り溢すことなく捉えることのできる自分を、忘れないように生きたいと思う。

セカイ系の終わり

 セカイ系なんて元々存在しない。

 

 ――とは、流石に言葉が過ぎるかもしれないけれど、少なくともここ数年僕は、「セカイ系」という言葉を全く必要とせず、用いずに様々な物語を享受している。

君の名は。』公開時のウェブ記事やSNSを読む中で、世間が〝あえて〟その言葉を掘り返すことに既に強い抵抗感があったことを記憶しているから、2016年の8月には既にそうだったことは確かだ。

 2013~15年辺りまでの僕は、意図的にその言葉を用い、その枠組みが存在すると信じ、自身の創作においてもそれを意識、指向していた。

 かつての僕は「セカイ系」が好きだった。「セカイ系」を論ずる場、人と繋がりを持とうとし、過去の文献を遡り、適当な言葉を連ね批判している人に憤り、「セカイ系」を標榜した一次創作=「ぼくのかんがえたさいきょうのセカイ系」をつくっていた。

 その定義の実に不確かな言葉について、本気で考える情熱があった。そして、本気で考えようと客観と俯瞰を繰り返した結果、「セカイ系」という言葉そのものから離れるに至った。

 

「あれ? 別にセカイ系って枠組みを用いる必要なくね?」

 

「あなたと私」の関係になるに決まっている〝恋愛〟を扱うアダルトゲームにおいて、「セカイ系」的要素が浮かび上がることは必然だ。

 しっかりと読み解せば、『イリヤ』『サイカノ』『ほしのこえ』そのどれもが、一緒くたにまとめられるほど単純な要素で構成されているわけではないことは明らかだ。

セカイ系」は、単に物語の枠組みの話だ。それを現実社会と過剰に照らし合わせ、オタクがどうこうと〝批評〟することは、言葉遊び以上の意味を持ちはしないのだ。

 少しずつ、そんな風に思うようになった。

 僕が大好きな愛しい物語たちは、そんな言葉を用いずとも素晴らしいし、そんな言葉を用いることで、受け手によって様々な見方が出来るはずの広がりを封じ込め、歪んだ輪郭を形作られてしまうのだと気づいた。

 イリヤもサイカノも大好きだ。ほしのこえも、君の名はも、天気の子も好きだ。同一作家を軸とした、十五年以上の歴史や現状を考えるのも、楽しい営みだ。

 でも、そこにセカイ系って言葉は無くてもいいんだ。

「物語の外側で起きていた運動や現象」を読み解く際に、その言葉は当然現れるだろうし、ある程度は必要にもなるだろう。それはもう仕方がない。誰かが作り、広げてしまったものだから。でも、これから何かを楽しむ際に、その言葉を念頭に置くことが、必ずしも正しいとは僕は思わない。或いは邪念だ、ノイズだとすら思うかもしれない。

 その言葉そのものを用いることが好きだった自分、どこか陶酔にも似た恍惚を抱いていた若き己を否定することもしない。そんな自分と言葉を交わしてくれた人たちのことも否定しない。セカイ系という言葉を必要としないからと言って、世界に影響を与える大好きな人の手を掴むことが出来ない断絶、無力感と不条理、その悲哀に心を揺さぶられるこの現実の誰か(少年)(=かつての僕)を決して否定しない。

 数多の物語のその素晴らしさは、その言葉を用いずとも、何一つ溢すことなく賞賛することは可能だし、何かを創作する上で、その言葉を意識する必要もない。

 あなたと私……いや、あえてこう言うべきだろう、〝君と僕〟の物語に現状を重ね合わせ、実存と〝世界〟をシンクロさせるその〝青さ〟に、「大人になれ」なんて僕は言わない。そんなモラトリアムを僕も歩いてきた。実のところ、まだまだその渦中にいたりするのかもしれない。でも、窮屈な言葉とは距離を置こう。

 イリヤの空、UFOの夏が、最終兵器彼女が、ほしのこえが、君の名は。が、天気の子が、雫が、AIRが、ブギーポップは笑わないが、涼宮ハルヒの憂鬱が、新世紀エヴァンゲリオンが素晴らしいのは、別に「セカイ系だから」じゃないんだよって、今改めて、僕は言いたい。

酷い話

 今朝、バスに乗ると、大股を開いて座る老爺がいた。僕はまず公共の乗り物内で、死ぬほど空いてるわけでもないのに足を開いている人間を軽蔑しているのだが、それはともかくとして、彼の隣をひとつ開け、座った。

 次のバス停で五人の団体が乗車した。内四人は外国人たちで、中年のおばさんだけが日本人だった。彼女が空いていた僕の隣に座ると、その老爺が何の前触れもなく「あんたが座るなんておもてなしがなってないよ」と言った。言いやがった。

 女性は「彼らは家族なので序列はないですよ」と返す。他の四人は彼女より明らかに一回り以上若く、当然最も年長者の彼女が座るのは自然なことだろうと思う。そもそも空いてる席に誰が座るか、というやりとりを直前にしていたのだから、それを見ていればそんな言葉は出てこないはずだ。

 老爺はそれを受け、「ああ、そうなの。家族はいいね。最近は金はあるのに独り身ばかりで困るよね。ところで、どこの人?」と繋げる。「アイルランドです」と返すと、今度は「アイルランドだと気性が荒いでしょう。上手くやっていけるのはあなたの人望なのかもね」と言う。それ褒め言葉になってねぇから。

 この辺で僕は結構限界に不愉快だったが、老爺は物珍しさからなのか、「どこか観光に連れて行くの?」と世間話を続けようとする。「彼らの希望で昨日は浅草に」と彼女が返すと、「浅草なんてダメだよ、あんなところゲテモノだよ。もっと庭園だとか……」。彼らの無邪気な希望のことなんて、この老人には関係ないのだ。

 この辺りで、バスは終点にたどり着いた。彼女らが乗り込んだバス停からは、10分もなかったように思う。

 

 このたった10分の間に、初対面の異性に対し偏見とマウントをひたすら繰り返す光景を、実際に見るなんて思ってもいなかった。そんなのは、バズった文脈ツイートの中だけだと思っていた。

 140字に纏めようとすると、どうしても必要以上に文脈を含みすぎると思ったため、下書きだけ書いて投稿をしなかったのだが、こうしてきちんと書き残しておこうと思うくらいには、大変に不愉快で、問題の多い出来事だと思った。

 ああいう人間は、きっともう変わらないのだろう。相対的な視点を獲得することは、きっと叶わないのだろう。僕はひたすら攻撃を受け続ける、あの女性が不憫でならなかった。

 僕はその時、彼女を助けるための声を上げることができなかった。これから自分は決まった時間の電車に乗らなければいけないこと、ほぼ寝起きであること、想定外の労力を使うことは気が重いこと、なんてまぁ、理由はいろいろだけれど、振り返れば不甲斐無く思う。だからせめてここに書き残します。

 こんな風に、日常に突然現れる悪意(今回のように、無自覚な悪意もあるだろう)に対して、普段特別自分のものとして意識を抱いていないと、咄嗟に反論の言葉、あるいはロジック(少なくとも公の場で初対面の人を糾弾するには、余程強度な感情か、理論が必要だろうと僕は思う)が出てこないのだと、思い知らされた。

 もしかしたらだけど、その老爺は、相手が女性で、自分より年下だから、あんな乱暴で最低な言葉を繰り返したのかもしれない。

 僕自身は決して経験することのない痛みを抱いている人がいるのだ、ということを突き付けられたような気がした出来事だった。

WE ARE LITTLE ZOMBIESと小便器

 トイレの小便器に、自分以外の人間がずらりと並んでいる時、僕は小便が出ない。どれだけ下腹部に力を入れても、何人かがその並びから離れたりしないと、栓が閉まっているみたいに一滴も出ないのだ。長久允監督作品「WE ARE LITTLE ZOMBIES」を観た後のトイレで、5つある小便器が自分含め4つ埋まっていた状況で、相変わらず治らない、おそらく一生変わることのない僕の癖を強く意識させられた。

 ※この文章は、映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」の感想となります。

     ◇

 品のない語り出しで大変恐縮なのだけれど、では何故僕はそんな身体になってしまったのか。その原因を僕は、自身の中学時代にあると結論付けている。
 僕の中学校は、地域柄なのか、比較的〝荒れて〟いた。加えて、僕は嫌われていた。休み時間のトイレは、僕を嫌いな僕が嫌いなやつと並んで小便をしなきゃいけない時の方が多かったのだ。
 それに、トイレは〝溜まる〟。学校指定の服装をダッサい着崩し方でキメているようなあいつらは、何時だってトイレに集うのだ。洗面器のデカイ鏡の前でヘアワックスを手に取り、虫の脚みたいな髪型をセットし直すのだ。
 僕は、その鏡に映る目と目を合わせないように俯きながら、退屈な授業と鬱屈の休み時間、どっちがマシかを天秤にかけながら、やつらがトイレを出るまで緊張の糸を張り続けていた。中学生において、教室階の個室を利用するのは本当に緊急の場合だけだ。
 そうして静まり返った男子トイレ、休み時間は気づけば残りわずか。そしてようやく、尿道は拓ける。
 時には、下の学年の小柄な男の子が、いじめられっ子に小便中に後ろに引っ張られて「やめて! やめて!」と懇願している中、尿道の開栓を待たねばならない時もあった。
 僕は彼を助けることなど当然できなかった。だって小便をしに来たのだから。もしも自分が同じ目にあったらと思うとますます身体は強張り、そんな日々を繰り返した結果、現在に至るこの癖をより強固なものにしてしまったのだと思う。

     ◇

 WE ARE LITTLE ZOMBIES。冒頭からほぼぴったり一時間くらいで、主人公たち13歳四人の境遇が描かれる。多少の戯画あれど、描かれるのはきっとありふれた思春期前半の絶望や感傷だ。
 火葬場で出会った四人は互いの境遇を知り、ひょんなことからバンドを始める。そのバンドを通して、彼らは心の傷を癒さないし、生きていることを実感しない。
 彼らの境遇は商品となり、消費されていく。ここで昨今のSNSを取り巻くあれこれの話を僕はしない。映画におけるそれにまつわる表現も、極めてありふれたものだからだ(語弊があるかもしれないけれど、貶しているわけではありません。ありふれたもので人は死ぬし、救われたりもします)。
 この映画が、「トラウマ解消ムービー、つらいこともあるけれど、生きるって最高!」な映画でないことは、一見すると判断しにくいかもしれない。
 なんといってもアートワークの大半を「ドット」が占めているからだ。ドットはなんとなくポップに、コミカルに見せるし、キャラクターの表情(が表す感情)みたいなものを読み取りづらくさせる(≒受け手に解釈を一任する。ドットゲームのイベントシーンなんかを思い浮かべてほしい)。でもこの映画は間違いなく一種の劇薬で、友達とワイワイ観るようなものではないと僕は思う。一人で、身構えて観るような、そういう映画だと思う。

 僕は葬式のシーンが好きだ。この映画的に言えば、〝エモい〟のだ。これはおそらく単なるフェチシズムなのだけど、故に火葬場の一連のシーンで、どうしようもなく泣けてしまった。随所に挟まれる8bitRPG風のゲーム画面も、〝エモさ〟に拍車をかける。これは単純に、好きなガワのお話。
 高校生よりさらに幼い子供たちの群像劇、例えば「害虫」、燃え盛る炎をバックに踊るイクコは「台風クラブ」、線路を走る彼らはまさに「STAND BY ME」……なんていう具合に、観ていて様々に想起される名作たちの、現代アップデート版とも言えるような端正さと美しさがあった。恥ずかしながら未プレイなのだけど、「夕闇通り探検隊」のようなゲームとかも、影響下にあるのかなぁ。
 台詞回しは舞台寄りだなと思ったし、観客に対して向けるモノローグの多用に見られるように、かなり自由な枠組みで物語が進んでいくあたりも、この映画全体がさながら、作中で象徴的に挿入されるMVのようだなと思ったりもした。
 しかし中島セナがいい。目線一発が強すぎるの、人間合格って感じ(?)。田渕ひさ子的とはある種言い得て妙だし、存在するだけで人を惹きつけてしまうような魅力みたいなものが、まさにイクコというキャラクター足るなぁと思いました。ああいう子、きっと現実にもいるし、僕も惹かれちゃうんだろうなぁ、嗚呼……。
 ああいう制服、マジでいいよね、フェティッシュな。第3新東京市立第壱中学校みたいな。

     ◇

 BURNOUT SYNDROMESというバンドに「ハイスコアガール」という曲がある。

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 映画を観ている間(無論そのアートワーク含め)、この曲のことが頭から離れなかった。劇場を後にしてすぐ、これを聴いた。
 こちらの曲はとてもポップで、前向きだ。めちゃくちゃ簡潔に言い表せば、「時として残酷な世界にも、放て昇竜拳!」みたいな曲だ。リトルゾンビーズが(描写として)突きつけてくるような毒気は、こちらにはない。

 それでも、僕は通底するものは変わらないと思う。

 突き詰めれば結局、「君たちはどう生きるか」なんていうくだらない一言で言い表せてしまうような、僕たちの、くだらなくて、一生付き纏う、地獄みたいな問いと、どう向かい合うかということなんだと思う。
 そしてこの「WE ARE LITTLE ZOMBIES」という映画は、間違いなくそれと真っ正面から向かい合おうとしていた映画だと思う。
 例えば「電通」という単語ひとつで、この映画の内容や表現に対し穿った見方をする人はきっといるだろうし、某300万ゾンビ映画みたいに、誰もが楽しめるような仕掛けや楽しさがある映画ではないかもしれない。
 僕だって、この映画を「へぇ~、映画よく観るんだぁ。最近のおススメは?」って言ってくるような奴には絶対に勧めないし、「すごいよかったから観て!」とSNSで拡散したいとはあまり思わない。

 でも僕はこんな風に書き残す。果ては作り手にも届きますようにと少しだけ祈りを込めながら、ひっそりと書き記す。
 一人で観て、「多分ここで泣いてるの、この映画館で俺だけだろう」ってシーンでひっそり泣いて、小便が出ない理由に過ぎ去りし遥か思春期を思い返すような、そういう映画だと僕は思う。褒めてんのか貶してんのかよー分からん書き方かもしれないけれど、興行をハリウッドが占める中で、2019年、都会のアスファルトや、「ここには何もない」と毒づく郊外や、色のない教室に生きる、他ならぬ僕ら日本人が(ここに政治的意味はない)観るべき映画だと思う。
 誰かにとっての毒か薬かになり得る、真摯な力を持っているものだったと、僕は思う。
 絶望と絶望だっさの繰り返しの中で。
 諦観と「それでも」の間で。


「ハイテンポな日々に足が縺れても 踊り切れ
 不格好に 自前の妙なステップ踏んで」
 ハイスコアガールBURNOUT SYNDROMES


 僕を笑った小便器隣のあいつらが、どうかこの映画を理解できませんように。

Netflix アンブレラアカデミーを観た。

 Netflixオリジナルドラマ「アンブレラアカデミー」、一歩遅れながらもようやく観終えた。

 マイケミのジェラルド・ウェイ原作ということで、「Welcome to the Black Parade」が好きな僕は数年前にコミック1巻の邦訳版を読んでいたのだけど、当時から実写映像化したら面白いだろうなと思っていた。というのもやはり、DCやマーベルとは多少毛色の違う(つまりダークホース色ってことなのかしら?)雰囲気が、同じアメコミ原作括りでも特徴あるアイデンティティになるだろうなと思ったからだ。

 実際にこの度実写化したということで、僕も改めて原作コミックを読み返してから全10話10時間近くを通して観た。

 正直、思っていたのと違ったなぁという感想です。

 予算や、ドラマシリーズという構成故だろうか。原作の、まさに「スーパーヒーローもの」といったビジュアルや展開は、そのほとんどがスポイルされてしまっていた。

 代わりに前面に押し出された要素は、「家族の話(原作にもある)」と「ミステリー(原作にはほぼない)」。しかも、それが実写化において丁度良いアレンジだとは、少し言い難い感じで。

 以下、比較を交えながら感想を残しておきます。ちなみに、邦訳のなされていない2巻以降の話は読んでいないので、比較は原作1巻「Apocalypse Suite」に限定されます。せめて2巻以降の作中時系列が分かればなぁと思うんですが、原典英文の情報は調べるのに骨が折れます。訳しながら読むの、漫画のテンポ感を落とすやり方なので好きでもないし得意でもないんだけど、キンドルで2巻が安いので買おうかと思っている。

 

     ◇

 

 僕は原作コミックが割と好きで、大筋はありふれていながらも、「スーパーヒーローもの」「家族のドラマ」と言ったテーマを少しずらして用いているところに興味深さを感じました。あえて深入りしない設定も多く、膨大な情報を最低限の描写で表現しており、その割り切った感じも結構好みではある。

 ドラマ版も大まかな大筋は、原作1巻と変わらない。

 世界中で、妊娠していなかった女性たちが43人の子供を出産、そのうちの7人をとある資産家が養子にした。超能力を持つ養子たちはアンブレラアカデミーと名乗りヒーロー活動を開始。それから月日が経ち、資産家の男が亡くなった機にそれぞれの人生を生きていた兄弟たちが再び集まる。未来から帰ってきた兄弟の一人が「あと数日で世界が終わる」と言い、それを止めるために兄弟たちが団結する……。

 団結、と言っても、原作においては、終盤の山場における一時の団結をきっかけにして、これから少しだけ兄弟たちの確執が融解していくのだろうな、くらいの終わり方で。僕はその殺伐とした塩梅が好みだった。

 ドラマ版はおそらく、上記に2巻以降のキャラクターや展開をアレンジして取り入れ、尺を稼いだのだろうなという印象。

 

 原作は、エッフェル塔が発狂するところから始まる。物語の〝引き〟として満点の導入だと思う。そしてこの導入で、ヒーローの子供たちが世間に対してどういう立ち位置なのかもおおよそ示される。1話の最後で時系列が現在へ飛び、「世界の終わり」を軸にした家族の物語が始まる。しかしドラマ版においては、ビジュアル的にも新規層を惹き込めるであろうその展開は丸々なく、セリフで語られるだけだった。ドラマだから仕方ないかとも思うが、しかし個人的にはこの展開、この要素こそアンブレラアカデミーの強烈なアイデンティティなのではないか、と思っていたので、残念だった。 

 ドラマ版は、原作における「世界の終わり」の直接的な原因となるキャラクターを導く人物が大幅に変更されている。コミック版は判りやすくコミックの悪役然とした人物であったが、ドラマにおいては、UAに個人的な思い入れがあり、それが恨みに転化したという、シナリオ的に非常にお行儀のいい、なんともありふれた人物になっていた。コミックにおいては、その人物自身のバックグラウンドは特段フォーカスされず、ある種の引き立て役として死ぬが、ドラマ版は尺稼ぎのためにその人物の過去が挿入されている。

 

 ――と、何度も「尺稼ぎ」という印象の悪い言葉を用いているが、僕がドラマ版に抱いた最大の感想は、何を隠そう「いやこれ2時間映画で良くないっスか」だったのだ。

 あまりにも間延びして、回りくどくて、冷静に話し合えば解決するだけの話をいつまでも引き延ばしている、そういう印象を持たざるを得なかった。

 いわゆるクリフハンガーとして、度々「実はこうだったんだ!」と展開されるが、正直特別な驚きもなく「まぁこの場合誰が考えてもそうでしょうね」となるに過ぎない。コミックにおいては、出来事を特別引き延ばして読み手を惹き込むといったやり方は取らないので(ページ数的の制約にも当然だが)、コミックの展開のスピーディーさと、そもそも相性が悪いように感じた。

 これを2時間の映画として、VFXやビジュアルに予算を割き、タイトに纏めたらどれだけの名作だっただろうかと思うと、なんだか口惜しい。 

 

 ただ、ドラマ版で良かった点もある。霊と交信できるジャンキーのキャラクターが、亡くなった兄弟の霊といつも行動している、という変更点だ。原作においても兄弟の一人が物語スタート地点から亡くなっていることには変わりないが、彼が現在進行形のドラマに絡むことはなかった。しかしドラマ版では、物語終盤にその霊を具現化させるという展開にまで至る。正直このシーンだけは鳥肌立った。僕個人の好みでしょうね、ええ。

 このジャンキーキャラ、(尺稼ぎの一環として妥当だろうが)原作よりフォーカスが当てられていて、何ならちょっと優遇されていた。コメディリリーフとしても分かりやすく人気を得そうな立ち回りで、果ては「創造主」と会話する展開まで用意されているんだから、オイシイの一言だ。

 ところでその「創造主」、ビジュアルが白いハットにワンピースを着た中東系の少女が自転車に乗ってやってくるという表現をされていたのだけど、これってキリスト教圏的にはどうなんですかね、詳しい人いたらご教授願いたいものです。

 

 で、最後に……。

〝観終えた〟と言ったんですけども、この10話、物語的には完結しないままブツ切りで終わったんですよ。「インフィニティ・ウォー」で例えるとサノスが指パッチンした瞬間にエンドロールみたいな感じ。ポスト・クレジットも無しで。

 これ、ひとつの作品としてどうなんですかね。例え続きものだとしても「シーズン1」という括りをしているのならそこで一区切りつけるべきではないんですかね? 10時間観て「結末はネクストシーズンを待ってね」ってアホらしくないですか?

 原作の多くの要素をスポイルして連続ドラマフォーマットに変換した今作、正直なところ、「多少の超能力を持っているらしい養子たちの家族のいざこざ」にしか見えなくて、スーパーヒーローの定義として第一のはずの、「市井の人々を救う」という描写が全くないんです。

 というのも、UAという集団は物語において既に過去のものとなっていて、現在進行形では市井の人々と関わらない(その描写が薄い)からで、それは原作においてもそうなんだけど、原作は余計な要素をひたすらそぎ落としてテンポよく見せているから気にならないんですよ。でもドラマは10時間分、感情的になってはすれ違うという展開をひたすら見せられて、挙句にオチすらついていないなんて、それはちょっとあんまりだなぁと思う。

 いや、そもそも「物語が完結していない」というのは内容がどうとか関係なしに、視聴者に対する一種の裏切りではないかと思う。これは「この物語には続編がある」とは違う。指パッチンをしたらせめてサノスが満足げに笑みを湛えるところまでは見せ切るべきじゃん。もっと言わせてもらえばMCUじゃないんだからエンドゲームのエンドロールまで描き切らないとダメじゃないの? と思うわけです。(例えが分かりにくい)

  シーズン1最後の展開は、原作と異なっているんだけど、正確には「異なります!」って言った瞬間にエンドロールなので、収集は㍉もついていないし、最初からシーズン2が決まっていたならともかくとして、ポシャったら完全に「エタった」黒歴史確定だったよ。まぁそんなことあるわけないか。最初からシーズン2は決まっていたんでしょう。じゃなきゃ普通、あんな最終回にするわけないよね。

 原作ファンとして、映像化を楽しみにしていたのに、これじゃあ「原作と比較」も片手落ちだよ。ドラマもオチてないんだから感想も抱くに抱ききれないし、纏めるに纏め切れないよ。なんだかなぁ☂ 

 いやでもこれ、僕が米ドラマの基本や通例を知らないだけなのでは?

「ミニアルバム制作予定」について

 オリジナル曲のミニアルバムを作ろうと、DTMで音源を始めて早3年くらい。気づいたら大学も卒業していた。

 大学の頃知り合った友人は今月ボカロのフルアルバムを全国流通させるし、既に何曲か楽曲提供を行っている。(まじですごい。おめでとう。これからも頑張ってほしい)

 一方こちらは、パソコンのスペックが足りなさ過ぎて録音中に止まる、だとか、ミックスの技術がなくて、だとか、いろいろ言い訳しながらダラダラと時間は過ぎ、僕はどんどんと歳を取り、作るものはどんどんと色褪せている。これは本当に危険なことで、当時書いた詞も今となっては乗り越えたり答えを出したりしたものも多くて、まさに言葉通り色褪せてしまうものがあるのではないかと恐れている。

 完成させる、ということは本当に大切なことなのだろう。だからいい加減、己に発破をかけようと、収録予定の曲を4曲、デモ段階でもいいからとにかくネットに上げてしまおうと手を動かした。

 昨日、「マキシマム ザ ホルモン2号店」という企画のYouTube動画の最終回を観た。詳細な説明は省くけれど、そのライブ映像で、僕は泣いてしまった。久しぶりに、音楽っていいな、なんて、ベタなことを思わされてしまった。それもまた、理由のひとつ。

 

 僕には特別な作詞曲の才能はない。ここでいう才能とは、学生時代になんとなく作ってみた曲が方々から褒められちゃって自信を持って本格的に頑張り始める、才能に惚れ込んだ「仲間」が最大限協力してくれる、みたいな意味合いで、僕は別にこの才能という言葉に囚われているというわけでは決してないので悪しからず。

 そして、じゃあ才能はないからめっちゃ努力しよう、とはならなかった。何故なら「音楽が好き」いう言葉に釣り合うほど、僕はいろんな時代のいろんなジャンルの音楽にあまり興味が持つことができないからで、結局今だって、繰り返し聴いているのはアジカンベボベバーンアウトくらいで、「音楽を追求」したいほどの情熱は結局なかったのだ、と振り返ってみれば思う。

 だから僕の作る曲が何かのエポックメイキングになることなんて勿論なければ、十代終わりの頃のように「オレの曲をみんなに届けるぜ! 有名になるぜ!」みたいな気概も今やすっかり失われてしまった。

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 六畳の六弦は世界を変えやしないけれど

 せめて大好きな人たちに伝うように

 屋上で讃えた世界の青さとか

 手に入れたものや失ったものの思い出を詰めて

 

「like a cream soda」という曲は、制作予定のミニアルバムの一曲目に収録される予定で、この曲のサビに当たる部分で僕はこんなことを書いた。

 僕はかつて後藤正文になりたかった男なので、オレの曲で世界を揺らしてやるぜ、と意気込んでいた季節もあったのだ。成長というものは残酷なもので、次第に自分が井の中にいると気づかされ、頑張って這い上がってみたところで広がっている大海はあまりにも途方が知れず、「ちょっとオレお門違いかしら」とか慎ましく挫折したりしてしまう。でもそれはそれで必要な経験で、じゃあ音楽を突き詰めることができない僕には実際のところ何があるのだろう、と、改めて足元や足跡を確認してみると見えてくるものがあったりする。

 そんな齢24の男が己から発信しようとする「音楽」とは、詰まるところこの歌詞程度のとても狭く小さな範囲でのことで、でも僕は今となっては、それでいいと思っている。

 

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あれから月日は過ぎたけれど、そちらは元気でやっていますか。

こちらは相も変わらずの、それなりな毎日です。

夢を抱いて旅立った彼女や、育った町で生きると決めた彼や、

もう二度と会えないあの人を浮かべながら、手紙を綴るように。

 

 つまりは、少し陶酔の混じった、ささやかな私信なんです。

 

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才能なんて多分無かったけど 思い出だけはどうにか傍に在る

17の空は今もこの胸の中 その下で咲き誇れコレオプシス

 

 なんていう青臭いこの歌詞はこの曲の白眉なんですが、白眉なのは僕自身や「コレオプシス」という文脈が理解できる人だけという大変内輪めいたものとなっている。

 向井秀徳ナンバーガール20周年リマスターの帯で「これねぇ、もう一言で言わせてもらいますけども・・・・・青春なんですよね。すみません、青春です」と言ったが、そういうことなのだ。彼と僕とには天地の差があるが。

 

ミニアルバム「sayonarayouth」

1 like a cream soda

2 Cocytus

3 E.O.A.

4 coreopsis(love letter from summer memories)

5 Moratorium of the dead!!!!!

6 Storm girl

 

 これら曲を、近々ライブでもやれるように現在バンドメンバー集めから練習の計画を立てています。ひっそりとやっていきますので応援よろしくお願いいたします。